【事件激情】ウルトラNW 第6便-続@再掲【朝鮮進駐軍】
*第5便









【事件激情】ウルトラNW 第6便-続@再掲【朝鮮進駐軍】
都市の大きさは約40kmもあり、そのすべてが繁栄している。
信じられない。
この豊かな楽園を倭人が所有しているのだ。
悔しい。
この犬のような倭人をすべて掃討したい。
──金仁謙(1764年朝鮮通信使書記)「日東壮遊歌」
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下山事件発生から42日後──
昭和24年 1949年 8月16日 火曜日
東京都中野区中野4丁目
「今日、お集まりいただいた皆さんは、この場所で、
ある極秘の任務に就いていました」
「かつて内務省警保局保安課に属しながら、組織表や職員録にも載らず、
その存在すら国会にも報道機関にも隠されていた、
“存在しないセクション”です」

「そのセクションの名は『第四係 作業』

皆さんはその本局係官として、
ここ陸軍中野学校内に隠された秘密本部で活動していました。
全国府県警察部の特別高等警察を実働部隊とする、
治安維持法執行、すなわち共産主義者コミュニスト圧殺の影の司令塔として」

─続
登場する事件テロ紛争戦争、その捜査は公表された情報に基づく。
黒字の人物・赤字の人物・紫字の人物および「内務省警保局保安課第四係(作業)」「サクラ」「チヨダ」「陸軍中野学校」も実在した機関部局である。
ニイタカ・ヤヨイ-カトリーヌはじめこの文字色は架空の人物であり、
実在する人物との関わりは、根拠は創造にしてソースは妄想である。
「第四係の係官は、陸軍中野学校で諜報を学んだOBを中心に抜擢されたと聞きます。内地外地の共産主義者やそのシンパ、米英およびソビエト連邦、チャイナ、ときには同盟国ドイツなど諸外国の間諜の監視、摘発の采配を振るってきたのです。









【事件激情】ウルトラNW 第6便-続@再掲【朝鮮進駐軍】
都市の大きさは約40kmもあり、そのすべてが繁栄している。
信じられない。
この豊かな楽園を倭人が所有しているのだ。
悔しい。
この犬のような倭人をすべて掃討したい。
──金仁謙(1764年朝鮮通信使書記)「日東壮遊歌」
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下山事件発生から42日後──
昭和24年 1949年 8月16日 火曜日

東京都中野区中野4丁目
「今日、お集まりいただいた皆さんは、この場所で、
ある極秘の任務に就いていました」

「かつて内務省警保局保安課に属しながら、組織表や職員録にも載らず、
その存在すら国会にも報道機関にも隠されていた、
“存在しないセクション”です」

「そのセクションの名は『第四係 作業』

皆さんはその本局係官として、
ここ陸軍中野学校内に隠された秘密本部で活動していました。
全国府県警察部の特別高等警察を実働部隊とする、
治安維持法執行、すなわち共産主義者コミュニスト圧殺の影の司令塔として」




登場する事件テロ紛争戦争、その捜査は公表された情報に基づく。
黒字の人物・赤字の人物・紫字の人物および「内務省警保局保安課第四係(作業)」「サクラ」「チヨダ」「陸軍中野学校」も実在した機関部局である。
ニイタカ・ヤヨイ-カトリーヌはじめこの文字色は架空の人物であり、
実在する人物との関わりは、根拠は創造にしてソースは妄想である。

「第四係の係官は、陸軍中野学校で諜報を学んだOBを中心に抜擢されたと聞きます。内地外地の共産主義者やそのシンパ、米英およびソビエト連邦、チャイナ、ときには同盟国ドイツなど諸外国の間諜の監視、摘発の采配を振るってきたのです。
しかし占領軍によって、反自由反民主の象徴的な特高はすぐさま廃止となり、
つづく内務省の解体とともに、第四係も人知れず消滅しました」
「皆さんも人知れず失業してしまったわけです。その後は要領よく地方警察や役所、新聞社等々に入り込んだ人もいるようですが。そうでない人もそれなりに第二の人生を」
「皆さんの母校陸軍中野学校においては、思想統制の厳しい戦時中ですら、
自由主義的な校風が守られていたそうですね」
「大東亜共栄圏、八紘一宇などの仰々しいスローガンに対しても、諜報実務には無益と目もくれず、教官と学生の間で天皇陛下をめぐる討論すら自由に行われていたとか」
「さて、そんな皆さんに、わたしが今こうしてお会いしていることは、
GHQの誰も知りません。それを前提に聞いてください」
「皆さんに、もう一度、かつての任務に復帰していただきたいのです」
「我が国の内務省も陸軍省も、すでに影も形もありませんが?」
「はい、新しい受け皿は、こちらのミスターカシワモチの、
国家地方警察本部の内局となる予定です」
「あーミスニイタカ、餅ではなく、村だ」
「ミスニイタカ、あなたの存在はさる筋でも噂になってましてね。しかも本物の国警のお偉い方まで引っ張り出してきたからにはいい加減なヨタでも無さそうだ。
しかし悪いが額面どおりには受けとれないんですよ。
先ほどあなたはGHQはこのこと知らないと言われたが、」

「今の日本でアメリカの承認なしに戦前のような治安機関を復活できるとは思えない」
「わたしは嘘は申しておりませんよ。
GHQの誰も、このことを知りません」
「あとはお察し、ということで今はどうかご理解を」
「あー諸君の疑念については、ミスニイタカの尽力によって
当該部局の設置が可能となった、とだけ言っておこう」

「現状、米国の許す限りにおいて反体制的策動に対する公安機能立て直しを急いでいるものの、以前どおりとはいかない。天皇陛下は国家の象徴となられ、我が国は自由と民主主義の国となった。特高再興と受けとられれば、大きく反発を受けるだろう」

「しかし時が解決するのをただ座して待っていても、国内治安は共産主義者および不逞鮮人らの策動によって日を追って悪化すること必至といっていい状態だ。
よって新たな機関も以前に増して秘匿とならざるを得ない」
「いまの話をもう少しクリアーに申し上げますと、皆さんには、またもや日の当たらない影の存在、黒子に徹してください、ということです」
「以前にまして、その活動一切が表に出ることはありません。
新憲法の下ではイリーガルとされる作業にも関わるでしょう」
「より暗く深い夜闇の住人になるのです。誰にも知られず、讃えられることもなく、家族にすら明かせず、我が子に誇ることもできず、ときにデモーニッシュな判断を下し、良心の葛藤に悩まされることもあるでしょう」
「(;ↂ‿‿ↂ) あーミスニイタカ、それクリアーに言いすぎ……」
「今さら言いつくろってもしようがないでしょう?
賢明な皆さんすでにお分かりのことでしょうし」
「だが断る」

「、と言ったら?」
「自由主義の旗のもと、もちろん職業選択の自由もあなたがたの権利です。
まあ警察行政のシークレット・オブ・シークレットを教えてしまったので、その権利を行使されるとわたしたちも困ってしまいますけどね。
でも皆さんは断りません」
「なぜそう思われるんで?」
「一度この世界の住人になった者は、外では生きられない」
「再編される機関の名は、四係を継承するのでありましょうか?」
「んー、やっぱりコードネームがあった方が近代的でしょうね──」
「じゃ、サクラ、にしましょうか」
「あのー、もしや、その徴章を見て思いついたので?」
「いいでしょう? サクラという響き、かわいいですし」
「……か、かわいい?」
「血も涙もない秘密警察の親玉とは、誰も思わないでしょう?」
この2年後──

──昭和27年 1952年 5月1日 木曜日
日本の主権回復わずか3日後におきた──

【血のメーデー】

国内外で大々的に報道され、日本の再出発はしょっぱなで泥を塗られた。

>で、気づけば、警察当局が牙抜かれすぎて情報力がかなり劣化してた件。
都学連や祖国防衛隊、民青の左翼活動家たちが共謀し、
メーデーデモの暴徒化をねらって周到に準備を重ねていた。
その動きを警視庁は察知できず、>結果、左翼にしてやられたんである。
これを教訓として、国家地方警察本部警備課に新「四係」が復活する。
もちろん部外秘でひそかに。
国家地方警察はすでにそれ以前から各地方管区の公安警察官の育成訓練を東京中央主体で行っており、あらかじめ着々と準備されてた既定路線だった。
さらに2年後、新警察法で二本立て警察体制が解消、>各市町村単位の自治体警察が廃止、>国家地方警察に吸収合併、>警察庁─都道府県警察本部体制でリスタートすると、>「四係」は警察庁警備局公安第1課にスライド移籍。
もちろん部外秘でひそかに。
新「四係」は「サクラ」の隠語で呼ばれ、
サクラを司令塔に都道府県警公安作業班および協力者網による公安警察が完成する。
もちろん部以下略
陸軍中野学校跡地は、奇しくも警察大学校に引き継がれ、
サクラの本部も大学校内に置かれ続けた。
学生寮「さくら寮」にあったので、「サクラ」と命名された──といわれている。
のちのち例の1986年神奈川県警の盗聴発覚>「サクラ」解散、>と見せかけて、>大学校から警察庁警備企画課にしれっと引っ越し、「チヨダ」と名を変える
ってのは、シモヤマインシデント界よりはるか未来の話。*【サティアンズ 第二解】
「各地方の国警管区本部から人員を東京に集めてトレーニングを行い、サクラ直属の作業班の編成を急ぐことになるでしょう。皆さんには指導教官もお願いする予定です」
「人員は決まっておるのですか」
「班長クラスはほぼ。もう一人、別の部門からぜひ誘いたい人がいるのですけれど」
「でも、受けてくれるかなあ? あの頑固者スタボン」


「っくしょいオラ!」
「あーくそ誰か噂しやがってんな」
「いや、一誉められだよ、八っちゃん」
「なんだそりゃ」
「くしゃみ1回ってのはね、誰かに誉められてるんだよ、ヤヨイさんだったりして」
「また金井てめーはくだらないことをっくしょいオラ!」
「あ、二誹られ。誰かバカにしてるよ」
「なにバカだとコノヤロ」
「いやだから、どこかの誰かだよ」
さてと、
どうしても下山総裁の失踪前日に立ち戻るんだよな。
失踪の前日7月4日 月曜の下山の足取り──
*【ウルトラ 4機目】*【ウルトラ 7機目】*【ウルトラ12機目】
下山は言うことやること朝からおかしかった。失踪当日の朝と同じように。
行き当たりばったりとしか思えない都内めぐり。
朝、自宅を出てから移動はすべて総裁専用車ビュイック。つまり大西運転手が証人。
国鉄本庁を出て、立ち回り先のうち、下山総裁が専用車から離れたのは、

>首相官邸、>外相官邸、>


>人事院ビル、>呉服橋の薬屋、>三菱千代田銀行、>ふたたび国鉄本庁、>

>警視庁、>法務府、>

>三たび国鉄本庁、>

>も一度首相官邸、>交通協会ビル、>

>東京駅@修復中、>

>日本橋交差点、>また交通協会ビル、>

>四度めの国鉄本庁、>退庁帰宅
さて、このうち現地で目撃証言がひとつもとれなかったのは2箇所だけ。
──午後3時半、二度目の首相官邸訪問。
車に戻るまで20分ていど、そのあいだ官邸内の誰も下山の姿を見ていない。
で、もうひとつが、

──夕刻6時ごろの、日本橋交差点で、
「ちょっと待ってくれ」
下山はその「ちょっと待ってくれ」で、
大西運転手を何時間も平気で待たせることがよくあった。
そういう日のあらかたは、歩いて10分強の新橋まで足を延ばし、
待合成田屋、愛人昵懇の女将森田のぶの店に入り浸ってたんだが、
なぜかこの日にかぎって、
大西運転手「総裁は半時間程度で車にもどってこられました」
半時間ぽっちじゃ、行き帰り20分以上かかる成田屋に10分もいられねえ。
森田のぶとその亭主によれば、やはり7月4日は成田屋に来なかった。
じゃ、空白の30分間、下山はどこにいた?
可能性として考えられるのは──
やっぱりこれしかねえか。
「あれ、八っちゃん。どこ行くの。もうすぐ会議だよ」
「ちょい出かけるわ。金井、おまえあとで内容教えてく

れっくしょいオラ!」
「三笑われ。笑われてるなあ八っちゃん」
「いちいち解説すんな。落ち着いてくしゃみもできやしねえ」
「でもなんで最後に“オラ”付くの?」
「あん? 土浦じゃこれがくしゃみの標準だバカヤロ」
「そんな標準聞いたことないよ」
「おれの隣近所じゃみんなこれだったぞっくしょいオラ!」
「四風邪ひき。風邪だよ」

もうひとつの風景。
下山事件から43日後──
昭和24年 1949年 8月17日 水曜日──
福島県信夫郡金谷川村

またもや、占領期ニッポンの黒い霧を象徴する事件がおころうとしている。

国鉄東北本線 青森発上野行き上り412旅客列車

──午前3時9分


【松川事件】

機関士石田正三@48歳 機関助士茂木政市@22歳 同伊藤利市@27歳
機関車乗務員3人死亡
線路には、明らかに人の手による工作の跡。
レール1本@25m重さ1トン弱が線路から外され、13m離れた場所に移されていた。
さらに現場あたりのレール継ぎ目のボルトナットもゆるゆるにされ、
継ぎ目板も取り外され、
レールを枕木に固定する犬釘も多数抜かれ。
どうぞ! 脱線してください!
といわんばかりにいじられていた。
ちなみにレールは重さ1トンもあるんで、単独犯とは考えられず。
増田甲子七官房長官
「三鷹事件をはじめその他の各種事件と思想底流において同じものである」
捜査は、この政府による出しゃばり発言に引っ張られる。
国家地方警察福島県本部
「現場近くの東芝松川工場労組と国鉄労組の共産党員による犯行」
世論の印象もはじめっから「犯人はあいつらだろ」
下山事件と同じく。そういう時代だった。

その空気感のまま、この事件、戦後最大最悪の冤罪事件へと発展するんだが。
松川事件は、三鷹事件、下山事件とともに、
「国鉄三大ミステリー」と呼ばれ、
そしてのち松川事件もまた例によって陰謀論「GHQの謀以下略」へと。

この年、もうひとつの風景──
Walter Crosby Eells
ウォルター・C・イールズ
CIE@民間情報教育局顧問

「共産主義の教授は大学から除かれるべきである!」
占領期前半のGHQ内で左派がブイブイいわせてた時期に、戦前系の顔ぶれは軒並み追い出され、左派好み系の顔ぶれが座を占めて我が春を謳歌していた。
それを同じGHQがもう一度追い出し直そうとしたんである。
一部の大学で「アカ教授」に退職勧告、さらに全国で小中高の「アカ教員」2000人がクビに。国立大教職員の政治活動も禁止となる。
とうぜんながら日本共産党やそのシンパたちが反発した。
さらに早くもその毒素で脳が赤化した学生たちも、

全国で「反対闘争」が吹き荒れ。
学問教育の自由とかを旗印にされると、
いちおう最初にそう初期設定しちまったGHQはちと分が悪く。

さらにもうひとつ、
これにふれないで戦後は語れない(はずの)風景──
ドカッ
昭和24年 1949年 8月19日 金曜日──
山口県下関市
【下関騒乱】
在日朝鮮人同士の市街バトル。
北朝鮮系の朝聯200人対韓国系の民団150人
終戦直後から在日朝鮮人による事件、全国各地で頻発中。
占領期のはじめ、アメリカの正義上の都合にしたがって、
日本人=成敗された加害者、朝鮮人=解放された被害者、という設定があてがわれ。
在日朝鮮人に割り振られたキャラは「解放国民」「日本の司法圏外」
エドワード・ワグナー@ハーバード大学教授(朝鮮史)
@元GHQ在日韓国人・在韓日本人引揚業務担当官
『日本における朝鮮少数民族』1951年より
「──日本降伏直後の半年ほどは、アメリカ占領軍の方針や同情的な視点によって、朝鮮人は便益を得た。朝鮮人をこれまでの圧制的差別的待遇から解放することは、占領軍の民主化方針からすれば当然の施策だった」
「──朝鮮人の団体が次々に主張する過大な要求は、公式には決して承認されなかったものの、明確に否定もされず、いくつかは日本人よりも特権的地位を与えられた」
が、「日本人より上らしい」って立場に置かれた朝鮮人の脳内がどうなるか、
アメリカ人は、彼らの民族性をまったく理解してなかった。
、の結果↓



「(#⓪益⓪) 朝鮮民族は、連合国人だ!」
【直江津駅リンチ殺人事件】@1945年12月

「(#⓪益⓪)朝鮮人に向かって生意気だ!」

「(#⓪益⓪)殺してやる!」
【神戸生田警察署襲撃事件】@1945年12月/1946年1月
【小石川富坂警察署襲撃事件】@1946年1月
【京都七条警察署襲撃事件】@1946年1月
【長崎警察署襲撃警官殺傷事件】@1946年5月
【京都七条警察官射殺事件】@1946年6月
【長野東条村警察官射殺事件】@1946年7月
【富山派出所襲撃事件】@1946年8月
【新潟坂町警官集団暴行事件】@1946年9月
「(#⓪益⓪) 敗戦国民日本人!」

【新潟日報襲撃事件】@1946年9月

「(#⓪益⓪) 戦勝国民朝鮮人に逆らうな!」
「──彼らは絶対に敗戦者の日本人には加担しようとせず、
かえって戦勝国民の仲間入りをしようとした」
【首相官邸デモ乱入事件】@1946年12月


「(#⓪益⓪) 敗戦国日本の役人には従わない!」
「(#⓪益⓪) 朝鮮民族は治外法権!」
「──朝鮮人は一般に、日本の法律はかれらに適用され得ないものとし、
アメリカ占領軍の指令も同じようにほとんど意に介しなかった。
そのため、国内に非常な混乱を起こした」
【山梨百田駐在所警官射殺事件】@1947年3月
【北海道津別乱闘事件】@1947年9月
【山形尾花沢派出所襲撃事件】@1947年10月
【福島朝鮮人窃盗団事件】@1948年12月
【山口宇部朝鮮人騒乱事件】@1948年12月
「──朝鮮人を逮捕しようとする際に、違法者とは同じ朝鮮人の血をひいているという以外は、何の関係もない朝鮮人分子がこれに加わって暴徒と化した例はきわめて多い」
殺人、集団強盗、略奪、婦女暴行、集団リンチ、器物破壊占拠占有、対行政暴力、監禁、脅迫、脱税、不正受給、密造酒──
みるみる個人レベルの犯罪の域を超え、数百人で押しかけ特権優遇を強要、行政や警察を襲撃殺傷、仲間が捕まれば警察署でもかまわず大挙して乱入>奪還、
──リアルヒャッハーである。
ちなみに当時の「在日朝鮮人」の呼び名は、のちの北朝鮮系だけでなく韓国系も含む。
「──朝鮮人による略奪行為が確認・未確認を合わせて急増した結果、占領軍が当初、朝鮮人に対して抱いていた同情的な目は、焦慮と敵意へと変わった」
GHQは初期設定ミスったことに気づく。
このままだと治安極悪化と共産主義者と組んだ動乱にもつながりかねない、
慌てて押さえ込みシフトへと切り換える。
っていわれても押さえ込むのは、現場の警官や税務署員だから宮仕えもてえへんです。
【神奈川税務署員殉職事件】@1947年6月
逆ギレられて殺されちゃったりとかするし。
パンッ
【浜松大紛争】@1948年4月
ジャパニーズヤクザVS朝鮮人愚連隊、
闇市の利権をめぐる市街戦。
3人死亡。
「(#⓪益⓪)朝鮮人学校閉鎖を撤回せよ!」

【阪神教育事件】@1948年4月

「(#⓪益⓪)民族教育を守れ!」
朝鮮人(と日本共産党員)計7000人超、
大阪府庁・兵庫県庁殴り込み。
米軍憲兵&武装警官隊と激突、
警察署襲撃、攻防戦で朝鮮人1人射殺、
朝鮮人2万人が集結、一触即発。
ついに戦後唯一の非常事態宣言発令までするハメに。
GHQの面目丸つぶれ。
「──1948年の神戸における緊急事態宣言は、日本の教育制度改革を朝鮮人が妨害した結果、行われたものである」

【島根益田警察署襲撃事件】@1949年1月
【江東区枝川逮捕妨害乱闘事件】@1949年4月
【福井本郷派出所占拠事件】@1949年6月
【新潟高田ドブロク事件】@1949年4月
【福島平警察署占拠事件】@1949年6月
【宮城塩竃朝連民団抗争】@1949年7月
【関東朝鮮人強盗団殺人事件】@1949年9月 *強盗団260人
【福井武生事件(裁判所・検察庁支部放火)】@1949年9月
【台東会館事件(朝連支部接収騒動)】@1950年3月
【連島町朝鮮人集会乱闘事件】@1950年8月

【神戸長田区役所襲撃事件】@1950年11月
【大津地検襲撃事件】@1950年12月
【三重四日市事件(朝連支部接収騒動)】@1951年1月
【王子朝鮮人学校事件(捜査妨害乱闘)】@1951年3月
【浅草米兵殺傷事件】@1951年3月
【神奈川朝鮮人学校運動会乱闘事件】@1951年6月
【滋賀日野事件(違法デモ暴動)】@1951年10月
【兵庫下里村役場集団恐喝事件】@1951年10月
【福岡暴動事件】@1951年11月
【大阪東成警察署襲撃事件】@1951年11月
【愛知半田・一宮事件(税務署・市区役所襲撃)】@1951年12月
【親子爆弾事件(クラスター爆弾工場襲撃)】@1951年12月
【青森木造地区警察署襲撃事件】@1952年2月
【姫路事件(交番同時多発占拠)】@1952年2月
【八坂神社事件(違法デモ暴動)】@1952年3月
【宇治事件(交番同時多発襲撃)】@1952年3月
【大阪多奈川町事件(密造酒取締妨害)】@1952年3月
【福岡田川事件(田川地区警察署襲撃)】@1952年4月
【岡山事件(無届デモ乱闘)】@1952年4月
【兵庫上郡事件(赤穂地区警察署襲撃)】@1952年5月
【大村収容所集団脱走未遂事件】@1952年5月/11月
【広島地裁事件(法廷占拠朝鮮人被告奪還)】@1952年5月
【高田事件(名古屋同時多発ゲリラ事件)】@1952年5月
【奈良警察官宅襲撃事件】@1952年5月
【山口宇部生活保護事件(福祉事務所襲撃)】@1952年6月
【山口万来町事件(民青結成集会騒乱)】@1952年6月
【京都島津三条工場事件(警察車両火炎瓶投擲)】@1952年6月
【滋賀醒ヶ井村事件(捜査妨害暴動)】@1952年6月
【神戸葦合・長田事件】@1952年6月 *朝鮮人児童100人が警察署襲撃
【大阪吹田・枚方事件(駐留軍襲撃・旧軍工廠爆破)】@1952年6月
【新宿駅暴動事件】@1952年6月

【名古屋大須事件(日本共産党・祖国防衛隊)】@1952年6月
【舞鶴事件(造船所乱入・警察署襲撃)】@1952年7月
【群馬相馬ヶ原警察予備隊駐屯地爆破未遂】@1952年7月
【仙台五所川原税務署占拠事件】@1952年11月
──ってのは、あふれんばかりにおきた事件のごく一部。きほん100人以上で暴れたり警察・行政を襲った無法度高い暴動系を並べたけども、
ものすごい件数である。
後半は日本共産党とつるんだ北朝鮮系祖国防衛隊がらみのテロ事案が多くなる。


──という戦後まもない在日朝鮮人のヒャッハーは、
マスコミの忖度かなんか知らんけど、今やふれられることのない史実である。

……いやー、
「警察戦国時代」と称した安保闘争のころより、はるかにマッドマックスである。
進駐軍の助太刀があったとはいえ、ジャパニーズポリスメン、よく踏ん張ったもんだ。
ちなみにこの話で欠かせぬキーワード「強制連行」「朝鮮進駐軍」
慰安婦合意効果で慰安婦カードが封じられてきて、どこぞの連中が、
次なる反日カードに「強制連行」を育てようと蠢いてる昨今。
そして嫌韓とか嫌在とか反反日とか日本を取り戻す系のテキストで「朝鮮進駐軍」というワードが増えてきて、だけど、どうも朝鮮進駐軍については間違った情報が陰謀論的に使われ続けてるケースがますます多くなってきたし、
いまや省けないネタだけども、ちと文字多めになるんで↓
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占領期日本で荒ぶってた連中は、
「(#⓪益⓪)強制連行されてきた(ので犯罪や特権も当然)」
と、例によって得意の「(#⓪益⓪)日本が悪い」で済まされてきたんだけども、
この連中、本当は↓こういうカテゴリーである。
大半、自由意思で居住
外務省、在日朝鮮人で発表
戦時徴用は245人
在日朝鮮人の北朝鮮帰還をめぐって韓国側などで「在日朝鮮人の大半は戦時中に日本政府が強制労働をさせるためにつれてきたもので、いまでは不要になったため送還するのだ」との趣旨の中傷を行っているのに対し、外務省はこのほど「在日朝鮮人の引揚に関するいきさつ」について発表した。
(中略)
一、戦前(昭和十四年)に日本内地に住んでいた朝鮮人は約百万人で、終戦直前(昭和二十年)には約二百万人となった。増加した百万人のうち、七十万人は自分から進んで内地に職を求めてきた個別渡航者と、その間の出生によるものである。残りの三十万人は大部分、工鉱業、土木事業の募集に応じてきた者で、戦時中の国民徴用令による徴用労務者はごく少数である。また国民徴用令は日本内地では昭和十四年七月に実施されたが朝鮮への徴用はさしひかえ昭和十九年九月に実施されており、朝鮮人徴用労務者が導入されたのは、翌年三月の下関─釜山間の運行が止まるまでのわずか七カ月間であった。
一、終戦後、昭和二十年八月から翌年三月まで、希望者が政府の配船、個別引揚げで合計百四十万人が帰還したほか、北朝鮮へは昭和二十一年三月、連合国の指令に基く北朝鮮引揚計画で三百五十人が帰還するなど、終戦時までに在日していた者のうち七五%が帰還している。戦時中に来日した労務者、復員軍人、軍属などは日本内地になじみが薄いため終戦後、残留した者はごく少数である。

現在、登録されている在日朝鮮人は総計六十一万人で、関係各省で来日の事情を調査した結果、戦時中に徴用労務者としてきた者は二百四十五人にすぎず、現在、日本に居住している者は犯罪者を除き、自由意思によって在留した者である。
(1959年7月13日 朝日新聞)
これに、1948年の反共色強い韓国の李承晩イスンマンで一発変換政権による済州島四・三虐殺から逃げて日本に密航してきた島民たち、1950年の朝鮮戦争中の北朝鮮韓国両方による住民虐殺から逃れて日本に密航してきた韓国人たちが、いまの「在日」である。本来「強制連行」を口にできるのは、上の徴用労務者245人(それも有給かつ戦後も帰国せず自分の意思で日本に残留した)の子孫のみだ。
GHQ「朝鮮人は難民@帰還事業対象な」>「やっぱ日本の司法権およぶことにするわ」>「おまえら日本国籍な」>「いややっぱ外国籍だったわ」と、二転三転。
アメリカ─GHQの困惑具合と迷走っぷりである。
ちなみに阪神教育事件の非常事態宣言にブチ切れた最高司令官マッカーサーが、
「朝鮮人は戦勝国民にあらず、第三国人なり」宣言したっつう件だが、
これまた探しても同文コピペばかりで原典は一切見つからない。

ダグ「ワシそんな宣言しとらんもん」
「第三国人 Third Nationals」も、じっさい当時普及してた言葉だが、その初出がGHQ発か日本発か、日本語の英訳なのかその逆なのか、今もはっきりしない。
ただし戦後しばらくは国会の議事録でも、たいてい「第三国人」なる単語が、「問題」「治安」「犯罪」「違法」なるネガティブワードとセットで現れている。
さらにちなみに、
近ごろネット方面中心に拡散の勢い増してる、
↓キーワードと画像があるんだが。
「朝鮮進駐軍」
かなり古くからネット界隈ではちらほら流れてたネタであり、
ここんとこの世相の変化に推されて改めて拡散中である。
朝鮮進駐軍にはたいてい上の画像と下↓のような説明がくっついている。
で、朝鮮進駐軍が実話かデマか、ネット各所で議論つうか単なる罵り合いレッテル連呼し合いになってるが。
【ウルトラ】はニイタカ/白鳥部分はウソ八百なんだけども、それ以外はいちおう事実にこだわり、デマや風評やプロパガンダは左右日韓朝中米どのスタンスにも乗っからず、デマならデマと切り分けてる(はず)
で、そういう目線でみると、
今のところ朝鮮進駐軍については、裏付けになる一次資料は現れていない。
(いくら有名でも「誰々のブログ」とか「誰々の書いた嫌韓本」とか「誰々がネット放送で言ってた」は、証拠じゃないんで)
上にある象徴的な“朝鮮進駐軍の証拠写真”も、
毎日フォトバンクで、同じタイミングで撮られた写真と見比べますれば、
昭和24年9月、八重洲の在日本朝鮮人聯盟本部接収を撮った写真群のなかに、同じ場面をべつの角度から撮ったらしい1枚があり、


これはアレンジした絵で実写真じゃないんでそのへんよろしく
ほかの写真とのつながりからしてこの人物たちは「武装朝鮮人」じゃなくて、「(朝鮮人の接収妨害を)警戒する日本の警官隊」とみるのが自然な。
制服がふつうの警官と異なるのは、彼らが警視庁予備隊(のちの機動隊。警察予備隊@のち自衛隊とは別もの)だからで、旧軍の特攻服とか盗んで着てるわけではない。
同時代の写真にもこれと同じにみえる制服の警視庁警官隊がよく写っている。
こんなかんじで↓

新警察法で設立された三多摩の第八方面本部開設の様子
ってのもあって、このへんの写真群と注釈が毎日新聞の捏造または誤り、と証明しないかぎり、この写真=朝鮮進駐軍と言い張るのは難しい。が、

上の同じ写真に「朝鮮進駐軍」のキャプションを付けたチラシ
実在派はわざとか知らないか相変わらず同じ写真を同じ説明で拡散し続けてるがトムやーウソはいかんぞー。
ひとつのウソがすべての真実を色褪せさせてしまうんである。
これは反日サイドにはもちろん、愛国サイドにも当てはまることだ。
で、一方の朝鮮進駐軍存在否定派の方は否定派の方でどうかというと、
こっちもナニでアレで。
「朝鮮進駐軍」部分さえ論破すれば、>
もしくは、
日本女性を白昼輪姦する在日朝鮮人の暴挙と日本人ヤクザが戦った、という証言が山口組の田岡一雄の自伝だから「ヤクザの本が証拠www」と揶揄さえすれば>
祖国防衛隊と朝聯と民戰と朝鮮総聯との混同をツッコミさえすれば、>

>「在日に否定的な話はぜんぶネトウヨの妄想」とか「植民支配と差別の被害者なのだからこのくらいの暴発しかたなかった」とか素敵な呪文「そもそも日本が悪い」「レイシストのヘイトの」とか方面へもっていける、
っつうレフティな邪気ゆんゆんするし、それはそれでナニでアレである。
たとえこの朝鮮進駐軍名乗りが虚構だったとしても、全景はそんなに変わらない。
当時の在日朝鮮人が全国各地でやらかしたタガ外れた無法っぷりも、各地で暴徒化して公権力と激突してたのも、当時の公的記録や報道が多く残るし、なかには私設警察まで勝手につくって逮捕監禁拷問してた例(中京私設警察事件)も起きてるしで、
名前は違えど“朝鮮進駐軍”的行動が数限りなくあったのは消しようもない事実なんで。
なんにしろ否定派も実在派もともに、都合よくいろいろ盛ったりすり替えたりするんで、受けとる側はくれぐれも注意が必要なんである。

こういう怒濤のカオスな殺伐とした世相の昭和24年夏、下山事件はおきたんである。

そして、もとの風景。
下山事件から46日後──
昭和24年 1949年8月20日 土曜日──
同日付 朝日新聞
「三鷹・下山事件をめぐって」と題した記者座談会(風の記事)

司会 旅館にいったのは替玉だと
いう説もあるね
Z 今のところではどうも危い
もんだということになっている
司会 いずれにしても一躍有名に
なつた末広旅館は商売繁盛かな
A あれはもともと戦後場末に
激増した旅館の一つで、繁盛とい
うわけでもないがあそこのオカミ
は抜け目がない、取材に行った若
い記者に『お安くまけますからど
うぞよろしく』とのがさず宣伝し
ていた
怪紳士の証言にシドロモドロな
点もあつたね、はじめはオカミ
が休んだのは下山さんに間違い
ないとガンバつていたが、テイ
主も乗り出し下山説を強調して
いた、ところがこのテイ主はそ
の紳士には会つていなかった、
夫婦で仲良く下山説だ、手のつ
けようがないね

失踪日の下山滞在を証言した末広旅館の誹謗中傷記事である。
謀殺下山事件だー!

末広旅館の女将証言どおりに、下山が午後いっぱい夕方まで旅館でのんきに昼寝してました、となると、せっかくの陰謀ロマンあふれる拉致殺害説がアホの寝言みたいになっちまうんで、彼らにとって末広旅館の女将はいちばん邪魔っ気な証人である。
で、この朝日新聞の座談会(風記事)だが、読めばわかるとおり目撃証言への論理的な反証なんてかけらも書いてない。ただの悪口だ。しかも低俗にして卑劣な。
悪意の中傷、人格攻撃、単なる嘘、捏造、印象操作──
あれ、ごく最近もどっかで聞いたような。

末広旅館は、執拗な悪口批判報道と、便乗したそのへんの一般人連中の嫌がらせで、「商売繁盛」どころか、すっかり商売あがったりになってしまった。
女将長島フクも精神的に追いつめられてふさぎこみ引きこもりがちに。
8月3日の警視庁の自殺発表中止と、自殺説推し毎日新聞の(結果的な)誤報で、劣勢だった他殺説ががぜん盛り返してたわけで。というか当局の姿勢はこのまま「灰色終息」らしいのがなんとのう明らかになりつつあるしで。
しかも物資不足で紙面はペラ1枚2面多くて2ツ折4面がせいいっぱい。
そんななかでなぜ朝日新聞は、ニュースバリューもない、ゲス顔で書いたような個人への悪口をわざわざスペース割いて載せたのか。
けっきょくこの記事の本音↓
ちっぽけな庶民の分際で、

天下の新聞様に逆らいやがって!

思い知ったか!ぺろぺろぺろぺろ!
ざまぁwwww

「もうあの事件は、わたしの出る幕ではないし、綺麗事を述べられるような立場でもないし、このままフェイドアウトしよう──」
「──かなと思っていましたが、まだまだわたしも未熟なようですね」
「こういうやつら、
わたしは嫌いです」
【第7便 夜会への招待 ─シモヤマインシデント】へとつづく







つづく内務省の解体とともに、第四係も人知れず消滅しました」

「皆さんも人知れず失業してしまったわけです。その後は要領よく地方警察や役所、新聞社等々に入り込んだ人もいるようですが。そうでない人もそれなりに第二の人生を」



「皆さんの母校陸軍中野学校においては、思想統制の厳しい戦時中ですら、
自由主義的な校風が守られていたそうですね」

「大東亜共栄圏、八紘一宇などの仰々しいスローガンに対しても、諜報実務には無益と目もくれず、教官と学生の間で天皇陛下をめぐる討論すら自由に行われていたとか」

「さて、そんな皆さんに、わたしが今こうしてお会いしていることは、
GHQの誰も知りません。それを前提に聞いてください」

「皆さんに、もう一度、かつての任務に復帰していただきたいのです」

「我が国の内務省も陸軍省も、すでに影も形もありませんが?」
「はい、新しい受け皿は、こちらのミスターカシワモチの、
国家地方警察本部の内局となる予定です」

「あーミスニイタカ、餅ではなく、村だ」

「ミスニイタカ、あなたの存在はさる筋でも噂になってましてね。しかも本物の国警のお偉い方まで引っ張り出してきたからにはいい加減なヨタでも無さそうだ。
しかし悪いが額面どおりには受けとれないんですよ。
先ほどあなたはGHQはこのこと知らないと言われたが、」


「今の日本でアメリカの承認なしに戦前のような治安機関を復活できるとは思えない」

「わたしは嘘は申しておりませんよ。
GHQの誰も、このことを知りません」

「あとはお察し、ということで今はどうかご理解を」
「あー諸君の疑念については、ミスニイタカの尽力によって
当該部局の設置が可能となった、とだけ言っておこう」


「現状、米国の許す限りにおいて反体制的策動に対する公安機能立て直しを急いでいるものの、以前どおりとはいかない。天皇陛下は国家の象徴となられ、我が国は自由と民主主義の国となった。特高再興と受けとられれば、大きく反発を受けるだろう」

「しかし時が解決するのをただ座して待っていても、国内治安は共産主義者および不逞鮮人らの策動によって日を追って悪化すること必至といっていい状態だ。
よって新たな機関も以前に増して秘匿とならざるを得ない」

「いまの話をもう少しクリアーに申し上げますと、皆さんには、またもや日の当たらない影の存在、黒子に徹してください、ということです」

「以前にまして、その活動一切が表に出ることはありません。
新憲法の下ではイリーガルとされる作業にも関わるでしょう」

「より暗く深い夜闇の住人になるのです。誰にも知られず、讃えられることもなく、家族にすら明かせず、我が子に誇ることもできず、ときにデモーニッシュな判断を下し、良心の葛藤に悩まされることもあるでしょう」

「(;ↂ‿‿ↂ) あーミスニイタカ、それクリアーに言いすぎ……」

「今さら言いつくろってもしようがないでしょう?
賢明な皆さんすでにお分かりのことでしょうし」
「だが断る」


「、と言ったら?」
「自由主義の旗のもと、もちろん職業選択の自由もあなたがたの権利です。
まあ警察行政のシークレット・オブ・シークレットを教えてしまったので、その権利を行使されるとわたしたちも困ってしまいますけどね。
でも皆さんは断りません」
「なぜそう思われるんで?」

「一度この世界の住人になった者は、外では生きられない」



「再編される機関の名は、四係を継承するのでありましょうか?」

「んー、やっぱりコードネームがあった方が近代的でしょうね──」

「じゃ、サクラ、にしましょうか」
「あのー、もしや、その徴章を見て思いついたので?」

「いいでしょう? サクラという響き、かわいいですし」
「……か、かわいい?」

「血も涙もない秘密警察の親玉とは、誰も思わないでしょう?」
この2年後──

──昭和27年 1952年 5月1日 木曜日
日本の主権回復わずか3日後におきた──

【血のメーデー】

国内外で大々的に報道され、日本の再出発はしょっぱなで泥を塗られた。

>で、気づけば、警察当局が牙抜かれすぎて情報力がかなり劣化してた件。

都学連や祖国防衛隊、民青の左翼活動家たちが共謀し、
メーデーデモの暴徒化をねらって周到に準備を重ねていた。
その動きを警視庁は察知できず、>結果、左翼にしてやられたんである。
これを教訓として、国家地方警察本部警備課に新「四係」が復活する。
もちろん部外秘でひそかに。
国家地方警察はすでにそれ以前から各地方管区の公安警察官の育成訓練を東京中央主体で行っており、あらかじめ着々と準備されてた既定路線だった。
さらに2年後、新警察法で二本立て警察体制が解消、>各市町村単位の自治体警察が廃止、>国家地方警察に吸収合併、>警察庁─都道府県警察本部体制でリスタートすると、>「四係」は警察庁警備局公安第1課にスライド移籍。
もちろん部外秘でひそかに。

新「四係」は「サクラ」の隠語で呼ばれ、
サクラを司令塔に都道府県警公安作業班および協力者網による公安警察が完成する。
もちろん部以下略

陸軍中野学校跡地は、奇しくも警察大学校に引き継がれ、
サクラの本部も大学校内に置かれ続けた。
学生寮「さくら寮」にあったので、「サクラ」と命名された──といわれている。
のちのち例の1986年神奈川県警の盗聴発覚>「サクラ」解散、>と見せかけて、>大学校から警察庁警備企画課にしれっと引っ越し、「チヨダ」と名を変える
ってのは、シモヤマインシデント界よりはるか未来の話。*【サティアンズ 第二解】

「各地方の国警管区本部から人員を東京に集めてトレーニングを行い、サクラ直属の作業班の編成を急ぐことになるでしょう。皆さんには指導教官もお願いする予定です」
「人員は決まっておるのですか」
「班長クラスはほぼ。もう一人、別の部門からぜひ誘いたい人がいるのですけれど」

「でも、受けてくれるかなあ? あの頑固者スタボン」


「っくしょいオラ!」

「あーくそ誰か噂しやがってんな」

「いや、一誉められだよ、八っちゃん」
「なんだそりゃ」
「くしゃみ1回ってのはね、誰かに誉められてるんだよ、ヤヨイさんだったりして」

「また金井てめーはくだらないことをっくしょいオラ!」
「あ、二誹られ。誰かバカにしてるよ」
「なにバカだとコノヤロ」
「いやだから、どこかの誰かだよ」
さてと、

どうしても下山総裁の失踪前日に立ち戻るんだよな。
失踪の前日7月4日 月曜の下山の足取り──
*【ウルトラ 4機目】*【ウルトラ 7機目】*【ウルトラ12機目】

下山は言うことやること朝からおかしかった。失踪当日の朝と同じように。
行き当たりばったりとしか思えない都内めぐり。

朝、自宅を出てから移動はすべて総裁専用車ビュイック。つまり大西運転手が証人。
国鉄本庁を出て、立ち回り先のうち、下山総裁が専用車から離れたのは、


>首相官邸、>外相官邸、>



>人事院ビル、>呉服橋の薬屋、>


>警視庁、>法務府、>


>三たび国鉄本庁、>


>も一度首相官邸、>交通協会ビル、>


>東京駅@修復中、>


>日本橋交差点、>また交通協会ビル、>


>四度めの国鉄本庁、>退庁帰宅
さて、このうち現地で目撃証言がひとつもとれなかったのは2箇所だけ。

──午後3時半、二度目の首相官邸訪問。
車に戻るまで20分ていど、そのあいだ官邸内の誰も下山の姿を見ていない。
で、もうひとつが、


──夕刻6時ごろの、日本橋交差点で、

「ちょっと待ってくれ」

下山はその「ちょっと待ってくれ」で、
大西運転手を何時間も平気で待たせることがよくあった。

そういう日のあらかたは、歩いて10分強の新橋まで足を延ばし、

待合成田屋、
なぜかこの日にかぎって、

大西運転手「総裁は半時間程度で車にもどってこられました」
半時間ぽっちじゃ、行き帰り20分以上かかる成田屋に10分もいられねえ。

森田のぶとその亭主によれば、やはり7月4日は成田屋に来なかった。

じゃ、空白の30分間、下山はどこにいた?
可能性として考えられるのは──

やっぱりこれしかねえか。
「あれ、八っちゃん。どこ行くの。もうすぐ会議だよ」

「ちょい出かけるわ。金井、おまえあとで内容教えてく


れっくしょいオラ!」
「三笑われ。笑われてるなあ八っちゃん」
「いちいち解説すんな。落ち着いてくしゃみもできやしねえ」
「でもなんで最後に“オラ”付くの?」
「あん? 土浦じゃこれがくしゃみの標準だバカヤロ」
「そんな標準聞いたことないよ」

「おれの隣近所じゃみんなこれだったぞっくしょいオラ!」
「四風邪ひき。風邪だよ」

もうひとつの風景。

下山事件から43日後──
昭和24年 1949年 8月17日 水曜日──
福島県信夫郡金谷川村

またもや、占領期ニッポンの黒い霧を象徴する事件がおころうとしている。

国鉄東北本線 青森発上野行き上り412旅客列車

──午前3時9分


【松川事件】

機関士石田正三@48歳 機関助士茂木政市@22歳 同伊藤利市@27歳
機関車乗務員3人死亡

線路には、明らかに人の手による工作の跡。

レール1本@25m重さ1トン弱が線路から外され、13m離れた場所に移されていた。

さらに現場あたりのレール継ぎ目のボルトナットもゆるゆるにされ、
継ぎ目板も取り外され、


レールを枕木に固定する犬釘も多数抜かれ。

どうぞ! 脱線してください!
といわんばかりにいじられていた。
ちなみにレールは重さ1トンもあるんで、単独犯とは考えられず。

増田甲子七官房長官
「三鷹事件をはじめその他の各種事件と思想底流において同じものである」
捜査は、この政府による出しゃばり発言に引っ張られる。
国家地方警察福島県本部
「現場近くの東芝松川工場労組と国鉄労組の共産党員による犯行」
世論の印象もはじめっから「犯人はあいつらだろ」
下山事件と同じく。そういう時代だった。


その空気感のまま、この事件、戦後最大最悪の冤罪事件へと発展するんだが。
松川事件は、三鷹事件、下山事件とともに、
「国鉄三大ミステリー」と呼ばれ、

そしてのち松川事件もまた例によって陰謀論「GHQの謀以下略」へと。

この年、もうひとつの風景──
Walter Crosby Eells
ウォルター・C・イールズ
CIE@民間情報教育局顧問


「共産主義の教授は大学から除かれるべきである!」
占領期前半のGHQ内で左派がブイブイいわせてた時期に、戦前系の顔ぶれは軒並み追い出され、左派好み系の顔ぶれが座を占めて我が春を謳歌していた。
それを同じGHQがもう一度追い出し直そうとしたんである。
一部の大学で「アカ教授」に退職勧告、さらに全国で小中高の「アカ教員」2000人がクビに。国立大教職員の政治活動も禁止となる。
とうぜんながら日本共産党やそのシンパたちが反発した。
さらに早くもその毒素で脳が赤化した学生たちも、


全国で「反対闘争」が吹き荒れ。
学問教育の自由とかを旗印にされると、
いちおう最初にそう初期設定しちまったGHQはちと分が悪く。

さらにもうひとつ、
これにふれないで戦後は語れない(はずの)風景──

昭和24年 1949年 8月19日 金曜日──
山口県下関市

【下関騒乱】
在日朝鮮人同士の市街バトル。
北朝鮮系の朝聯200人対韓国系の民団150人
終戦直後から在日朝鮮人による事件、全国各地で頻発中。
占領期のはじめ、アメリカの正義上の都合にしたがって、
日本人=成敗された加害者、朝鮮人=解放された被害者、という設定があてがわれ。
在日朝鮮人に割り振られたキャラは「解放国民」「日本の司法圏外」
エドワード・ワグナー@ハーバード大学教授(朝鮮史)
@元GHQ在日韓国人・在韓日本人引揚業務担当官
『日本における朝鮮少数民族』1951年より
「──日本降伏直後の半年ほどは、アメリカ占領軍の方針や同情的な視点によって、朝鮮人は便益を得た。朝鮮人をこれまでの圧制的差別的待遇から解放することは、占領軍の民主化方針からすれば当然の施策だった」
「──朝鮮人の団体が次々に主張する過大な要求は、公式には決して承認されなかったものの、明確に否定もされず、いくつかは日本人よりも特権的地位を与えられた」
が、「日本人より上らしい」って立場に置かれた朝鮮人の脳内がどうなるか、
アメリカ人は、彼らの民族性をまったく理解してなかった。
、の結果↓



「(#⓪益⓪) 朝鮮民族は、連合国人だ!」


「(#⓪益⓪)朝鮮人に向かって生意気だ!」

「(#⓪益⓪)殺してやる!」
【神戸生田警察署襲撃事件】@1945年12月/1946年1月
【小石川富坂警察署襲撃事件】@1946年1月
【京都七条警察署襲撃事件】@1946年1月
【長崎警察署襲撃警官殺傷事件】@1946年5月
【京都七条警察官射殺事件】@1946年6月
【長野東条村警察官射殺事件】@1946年7月
【富山派出所襲撃事件】@1946年8月
【新潟坂町警官集団暴行事件】@1946年9月
「(#⓪益⓪) 敗戦国民日本人!」



「(#⓪益⓪) 戦勝国民朝鮮人に逆らうな!」
「──彼らは絶対に敗戦者の日本人には加担しようとせず、
かえって戦勝国民の仲間入りをしようとした」
【首相官邸デモ乱入事件】@1946年12月



「(#⓪益⓪) 敗戦国日本の役人には従わない!」
「(#⓪益⓪) 朝鮮民族は治外法権!」
「──朝鮮人は一般に、日本の法律はかれらに適用され得ないものとし、
アメリカ占領軍の指令も同じようにほとんど意に介しなかった。
そのため、国内に非常な混乱を起こした」

【山梨百田駐在所警官射殺事件】@1947年3月
【北海道津別乱闘事件】@1947年9月
【山形尾花沢派出所襲撃事件】@1947年10月
【福島朝鮮人窃盗団事件】@1948年12月
【山口宇部朝鮮人騒乱事件】@1948年12月
「──朝鮮人を逮捕しようとする際に、違法者とは同じ朝鮮人の血をひいているという以外は、何の関係もない朝鮮人分子がこれに加わって暴徒と化した例はきわめて多い」
殺人、集団強盗、略奪、婦女暴行、集団リンチ、器物破壊占拠占有、対行政暴力、監禁、脅迫、脱税、不正受給、密造酒──
みるみる個人レベルの犯罪の域を超え、数百人で押しかけ特権優遇を強要、行政や警察を襲撃殺傷、仲間が捕まれば警察署でもかまわず大挙して乱入>奪還、
──リアルヒャッハーである。
ちなみに当時の「在日朝鮮人」の呼び名は、のちの北朝鮮系だけでなく韓国系も含む。
「──朝鮮人による略奪行為が確認・未確認を合わせて急増した結果、占領軍が当初、朝鮮人に対して抱いていた同情的な目は、焦慮と敵意へと変わった」
GHQは初期設定ミスったことに気づく。
このままだと治安極悪化と共産主義者と組んだ動乱にもつながりかねない、
慌てて押さえ込みシフトへと切り換える。
っていわれても押さえ込むのは、現場の警官や税務署員だから宮仕えもてえへんです。

【神奈川税務署員殉職事件】@1947年6月
逆ギレられて殺されちゃったりとかするし。

【浜松大紛争】@1948年4月
ジャパニーズヤクザVS朝鮮人愚連隊、
闇市の利権をめぐる市街戦。
3人死亡。
「(#⓪益⓪)朝鮮人学校閉鎖を撤回せよ!」



「(#⓪益⓪)民族教育を守れ!」
朝鮮人(と日本共産党員)計7000人超、
大阪府庁・兵庫県庁殴り込み。
米軍憲兵&武装警官隊と激突、
警察署襲撃、攻防戦で朝鮮人1人射殺、
朝鮮人2万人が集結、一触即発。

ついに戦後唯一の非常事態宣言発令までするハメに。
GHQの面目丸つぶれ。
「──1948年の神戸における緊急事態宣言は、日本の教育制度改革を朝鮮人が妨害した結果、行われたものである」


【島根益田警察署襲撃事件】@1949年1月
【江東区枝川逮捕妨害乱闘事件】@1949年4月
【福井本郷派出所占拠事件】@1949年6月
【新潟高田ドブロク事件】@1949年4月
【福島平警察署占拠事件】@1949年6月
【宮城塩竃朝連民団抗争】@1949年7月
【関東朝鮮人強盗団殺人事件】@1949年9月 *強盗団260人
【福井武生事件(裁判所・検察庁支部放火)】@1949年9月
【台東会館事件(朝連支部接収騒動)】@1950年3月
【連島町朝鮮人集会乱闘事件】@1950年8月


【神戸長田区役所襲撃事件】@1950年11月
【大津地検襲撃事件】@1950年12月
【三重四日市事件(朝連支部接収騒動)】@1951年1月
【王子朝鮮人学校事件(捜査妨害乱闘)】@1951年3月
【浅草米兵殺傷事件】@1951年3月
【神奈川朝鮮人学校運動会乱闘事件】@1951年6月
【滋賀日野事件(違法デモ暴動)】@1951年10月
【兵庫下里村役場集団恐喝事件】@1951年10月
【福岡暴動事件】@1951年11月
【大阪東成警察署襲撃事件】@1951年11月
【愛知半田・一宮事件(税務署・市区役所襲撃)】@1951年12月
【親子爆弾事件(クラスター爆弾工場襲撃)】@1951年12月
【青森木造地区警察署襲撃事件】@1952年2月
【姫路事件(交番同時多発占拠)】@1952年2月
【八坂神社事件(違法デモ暴動)】@1952年3月
【宇治事件(交番同時多発襲撃)】@1952年3月
【大阪多奈川町事件(密造酒取締妨害)】@1952年3月
【福岡田川事件(田川地区警察署襲撃)】@1952年4月
【岡山事件(無届デモ乱闘)】@1952年4月
【兵庫上郡事件(赤穂地区警察署襲撃)】@1952年5月
【大村収容所集団脱走未遂事件】@1952年5月/11月
【広島地裁事件(法廷占拠朝鮮人被告奪還)】@1952年5月
【高田事件(名古屋同時多発ゲリラ事件)】@1952年5月
【奈良警察官宅襲撃事件】@1952年5月
【山口宇部生活保護事件(福祉事務所襲撃)】@1952年6月
【山口万来町事件(民青結成集会騒乱)】@1952年6月
【京都島津三条工場事件(警察車両火炎瓶投擲)】@1952年6月
【滋賀醒ヶ井村事件(捜査妨害暴動)】@1952年6月
【神戸葦合・長田事件】@1952年6月 *朝鮮人児童100人が警察署襲撃
【大阪吹田・枚方事件(駐留軍襲撃・旧軍工廠爆破)】@1952年6月
【新宿駅暴動事件】@1952年6月


【名古屋大須事件(日本共産党・祖国防衛隊)】@1952年6月
【舞鶴事件(造船所乱入・警察署襲撃)】@1952年7月
【群馬相馬ヶ原警察予備隊駐屯地爆破未遂】@1952年7月
【仙台五所川原税務署占拠事件】@1952年11月
──ってのは、あふれんばかりにおきた事件のごく一部。きほん100人以上で暴れたり警察・行政を襲った無法度高い暴動系を並べたけども、
ものすごい件数である。
後半は日本共産党とつるんだ北朝鮮系祖国防衛隊がらみのテロ事案が多くなる。


──という戦後まもない在日朝鮮人のヒャッハーは、
マスコミの忖度かなんか知らんけど、今やふれられることのない史実である。

……いやー、
「警察戦国時代」と称した安保闘争のころより、はるかにマッドマックスである。
進駐軍の助太刀があったとはいえ、ジャパニーズポリスメン、よく踏ん張ったもんだ。
ちなみにこの話で欠かせぬキーワード「強制連行」「朝鮮進駐軍」
慰安婦合意効果で慰安婦カードが封じられてきて、どこぞの連中が、
次なる反日カードに「強制連行」を育てようと蠢いてる昨今。
そして嫌韓とか嫌在とか反反日とか日本を取り戻す系のテキストで「朝鮮進駐軍」というワードが増えてきて、だけど、どうも朝鮮進駐軍については間違った情報が陰謀論的に使われ続けてるケースがますます多くなってきたし、
いまや省けないネタだけども、ちと文字多めになるんで↓
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占領期日本で荒ぶってた連中は、
「(#⓪益⓪)強制連行されてきた(ので犯罪や特権も当然)」
と、例によって得意の「(#⓪益⓪)日本が悪い」で済まされてきたんだけども、
この連中、本当は↓こういうカテゴリーである。

大半、自由意思で居住
外務省、在日朝鮮人で発表
戦時徴用は245人
在日朝鮮人の北朝鮮帰還をめぐって韓国側などで「在日朝鮮人の大半は戦時中に日本政府が強制労働をさせるためにつれてきたもので、いまでは不要になったため送還するのだ」との趣旨の中傷を行っているのに対し、外務省はこのほど「在日朝鮮人の引揚に関するいきさつ」について発表した。
(中略)
一、戦前(昭和十四年)に日本内地に住んでいた朝鮮人は約百万人で、終戦直前(昭和二十年)には約二百万人となった。増加した百万人のうち、七十万人は自分から進んで内地に職を求めてきた個別渡航者と、その間の出生によるものである。残りの三十万人は大部分、工鉱業、土木事業の募集に応じてきた者で、戦時中の国民徴用令による徴用労務者はごく少数である。また国民徴用令は日本内地では昭和十四年七月に実施されたが朝鮮への徴用はさしひかえ昭和十九年九月に実施されており、朝鮮人徴用労務者が導入されたのは、翌年三月の下関─釜山間の運行が止まるまでのわずか七カ月間であった。
一、終戦後、昭和二十年八月から翌年三月まで、希望者が政府の配船、個別引揚げで合計百四十万人が帰還したほか、北朝鮮へは昭和二十一年三月、連合国の指令に基く北朝鮮引揚計画で三百五十人が帰還するなど、終戦時までに在日していた者のうち七五%が帰還している。戦時中に来日した労務者、復員軍人、軍属などは日本内地になじみが薄いため終戦後、残留した者はごく少数である。


現在、登録されている在日朝鮮人は総計六十一万人で、関係各省で来日の事情を調査した結果、戦時中に徴用労務者としてきた者は二百四十五人にすぎず、現在、日本に居住している者は犯罪者を除き、自由意思によって在留した者である。
(1959年7月13日 朝日新聞)
これに、1948年の反共色強い韓国の李承晩イスンマンで一発変換政権による済州島四・三虐殺から逃げて日本に密航してきた島民たち、1950年の朝鮮戦争中の北朝鮮韓国両方による住民虐殺から逃れて日本に密航してきた韓国人たちが、いまの「在日」である。本来「強制連行」を口にできるのは、上の徴用労務者245人(それも有給かつ戦後も帰国せず自分の意思で日本に残留した)の子孫のみだ。
GHQ「朝鮮人は難民@帰還事業対象な」>「やっぱ日本の司法権およぶことにするわ」>「おまえら日本国籍な」>「いややっぱ外国籍だったわ」と、二転三転。
アメリカ─GHQの困惑具合と迷走っぷりである。
ちなみに阪神教育事件の非常事態宣言にブチ切れた最高司令官マッカーサーが、
「朝鮮人は戦勝国民にあらず、第三国人なり」宣言したっつう件だが、
これまた探しても同文コピペばかりで原典は一切見つからない。


ダグ「ワシそんな宣言しとらんもん」
「第三国人 Third Nationals」も、じっさい当時普及してた言葉だが、その初出がGHQ発か日本発か、日本語の英訳なのかその逆なのか、今もはっきりしない。
ただし戦後しばらくは国会の議事録でも、たいてい「第三国人」なる単語が、「問題」「治安」「犯罪」「違法」なるネガティブワードとセットで現れている。
さらにちなみに、
近ごろネット方面中心に拡散の勢い増してる、
↓キーワードと画像があるんだが。

「朝鮮進駐軍」
かなり古くからネット界隈ではちらほら流れてたネタであり、
ここんとこの世相の変化に推されて改めて拡散中である。
朝鮮進駐軍にはたいてい上の画像と下↓のような説明がくっついている。
「在日朝鮮人の準軍事組織。旧日本軍・米軍から流出した銃器で武装、盗んだ特攻服を着用。占領期に日本人4千人を虐殺した。朝鮮人批判を禁じたプレスコードのせいで報道されず、今も在日帰化人に牛耳られた売国マスゴミが隠蔽している」
で、朝鮮進駐軍が実話かデマか、ネット各所で議論つうか単なる罵り合いレッテル連呼し合いになってるが。
【ウルトラ】はニイタカ/白鳥部分はウソ八百なんだけども、それ以外はいちおう事実にこだわり、デマや風評やプロパガンダは左右日韓朝中米どのスタンスにも乗っからず、デマならデマと切り分けてる(はず)
で、そういう目線でみると、
今のところ朝鮮進駐軍については、裏付けになる一次資料は現れていない。
(いくら有名でも「誰々のブログ」とか「誰々の書いた嫌韓本」とか「誰々がネット放送で言ってた」は、証拠じゃないんで)
上にある象徴的な“朝鮮進駐軍の証拠写真”も、
毎日フォトバンクで、同じタイミングで撮られた写真と見比べますれば、
昭和24年9月、八重洲の在日本朝鮮人聯盟本部接収を撮った写真群のなかに、同じ場面をべつの角度から撮ったらしい1枚があり、



これはアレンジした絵で実写真じゃないんでそのへんよろしく
ほかの写真とのつながりからしてこの人物たちは「武装朝鮮人」じゃなくて、「(朝鮮人の接収妨害を)警戒する日本の警官隊」とみるのが自然な。
制服がふつうの警官と異なるのは、彼らが警視庁予備隊(のちの機動隊。警察予備隊@のち自衛隊とは別もの)だからで、旧軍の特攻服とか盗んで着てるわけではない。
同時代の写真にもこれと同じにみえる制服の警視庁警官隊がよく写っている。
こんなかんじで↓


新警察法で設立された三多摩の第八方面本部開設の様子
ってのもあって、このへんの写真群と注釈が毎日新聞の捏造または誤り、と証明しないかぎり、この写真=朝鮮進駐軍と言い張るのは難しい。が、


上の同じ写真に「朝鮮進駐軍」のキャプションを付けたチラシ
実在派はわざとか知らないか相変わらず同じ写真を同じ説明で拡散し続けてるがトムやーウソはいかんぞー。
ひとつのウソがすべての真実を色褪せさせてしまうんである。
これは反日サイドにはもちろん、愛国サイドにも当てはまることだ。
で、一方の朝鮮進駐軍存在否定派の方は否定派の方でどうかというと、
こっちもナニでアレで。
「朝鮮進駐軍」部分さえ論破すれば、>
もしくは、
日本女性を白昼輪姦する在日朝鮮人の暴挙と日本人ヤクザが戦った、という証言が山口組の田岡一雄の自伝だから「ヤクザの本が証拠www」と揶揄さえすれば>
祖国防衛隊と朝聯と民戰と朝鮮総聯との混同をツッコミさえすれば、>


>「在日に否定的な話はぜんぶネトウヨの妄想」とか「植民支配と差別の被害者なのだからこのくらいの暴発しかたなかった」とか素敵な呪文「そもそも日本が悪い」「レイシストのヘイトの」とか方面へもっていける、
っつうレフティな邪気ゆんゆんするし、それはそれでナニでアレである。
たとえこの朝鮮進駐軍名乗りが虚構だったとしても、全景はそんなに変わらない。
当時の在日朝鮮人が全国各地でやらかしたタガ外れた無法っぷりも、各地で暴徒化して公権力と激突してたのも、当時の公的記録や報道が多く残るし、なかには私設警察まで勝手につくって逮捕監禁拷問してた例(中京私設警察事件)も起きてるしで、
名前は違えど“朝鮮進駐軍”的行動が数限りなくあったのは消しようもない事実なんで。
なんにしろ否定派も実在派もともに、都合よくいろいろ盛ったりすり替えたりするんで、受けとる側はくれぐれも注意が必要なんである。

こういう怒濤のカオスな殺伐とした世相の昭和24年夏、下山事件はおきたんである。

そして、もとの風景。
下山事件から46日後──
昭和24年 1949年8月20日 土曜日──


同日付 朝日新聞
「三鷹・下山事件をめぐって」と題した記者座談会(風の記事)


司会 旅館にいったのは替玉だと
いう説もあるね
Z 今のところではどうも危い
もんだということになっている
司会 いずれにしても一躍有名に
なつた末広旅館は商売繁盛かな
A あれはもともと戦後場末に
激増した旅館の一つで、繁盛とい
うわけでもないがあそこのオカミ
は抜け目がない、取材に行った若
い記者に『お安くまけますからど
うぞよろしく』とのがさず宣伝し
ていた


怪紳士の証言にシドロモドロな
点もあつたね、はじめはオカミ
が休んだのは下山さんに間違い
ないとガンバつていたが、テイ
主も乗り出し下山説を強調して
いた、ところがこのテイ主はそ
の紳士には会つていなかった、
夫婦で仲良く下山説だ、手のつ
けようがないね

失踪日の下山滞在を証言した末広旅館の誹謗中傷記事である。
謀殺下山事件だー!


末広旅館の女将証言どおりに、下山が午後いっぱい夕方まで旅館でのんきに昼寝してました、となると、せっかくの陰謀ロマンあふれる拉致殺害説がアホの寝言みたいになっちまうんで、彼らにとって末広旅館の女将はいちばん邪魔っ気な証人である。
で、この朝日新聞の座談会(風記事)だが、読めばわかるとおり目撃証言への論理的な反証なんてかけらも書いてない。ただの悪口だ。しかも低俗にして卑劣な。

悪意の中傷、人格攻撃、単なる嘘、捏造、印象操作──
あれ、ごく最近もどっかで聞いたような。



末広旅館は、執拗な

女将長島フクも精神的に追いつめられてふさぎこみ引きこもりがちに。

8月3日の警視庁の自殺発表中止と、自殺説推し毎日新聞の(結果的な)誤報で、劣勢だった他殺説ががぜん盛り返してたわけで。というか当局の姿勢はこのまま「灰色終息」らしいのがなんとのう明らかになりつつあるしで。
しかも物資不足で紙面はペラ1枚2面多くて2ツ折4面がせいいっぱい。
そんななかでなぜ朝日新聞は、ニュースバリューもない、ゲス顔で書いたような個人への悪口をわざわざスペース割いて載せたのか。

けっきょくこの記事の本音↓
ちっぽけな庶民の分際で、

天下の新聞様に逆らいやがって!


思い知ったか!ぺろぺろぺろぺろ!
ざまぁwwww


「もうあの事件は、わたしの出る幕ではないし、綺麗事を述べられるような立場でもないし、このままフェイドアウトしよう──」

「──かなと思っていましたが、まだまだわたしも未熟なようですね」

「こういうやつら、
わたしは嫌いです」
【第7便 夜会への招待 ─シモヤマインシデント】へとつづく








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