【事件激情】サティアンズ 第二十五解【地下鉄サリン事件】
午前8時10分、つづいて築地駅から──
“電車が爆発、乗客が鼻血”
午前8時15分──
NHK速報「東京地下鉄で異臭発生」
午前8時16分──
東京消防庁>聖路加国際病院の救命救急センター、最初の電話連絡。
“茅場町駅で爆発と火災、ケガ人の受け入れ準備願います”
まちがってるし。
午前8時17分──
「事件ですか、事故ですか?」
最初の110番通報<八丁堀駅
午前8時21分──
警視庁通信指令本部から>中央署へ、最初の指令
“警視庁から各局、中央管内調査方、カー*が付近にいませんので、最寄りのPB**派遣願います。場所が八丁堀2丁目22番、日比谷線の八丁堀の駅、病人2名、気持ち悪くなった者2名いるそうです、あるいは事件事故等やもしれませんが、詳細判然としません”

*カー : パトカー、覆面パトカーなど警察車両 今回通信のなかでは「移動」「PC」とも言っている
**PB : ポリスボックスすなわち交番や派出所
午前8時23分──
“警視庁から中央、調査方110番入電。PB員等の派遣お願いします。場所が日本橋茅場町1丁目4番6号、八丁堀1の4の6、日比谷線の茅場町駅。同所までお願いします。内容は先に八丁堀の駅で指令した件と同件やもしれませんが、異臭がして4名ぐらい病人が出た模様です”
午前8時24分──
“日比谷線の築地駅、現在電車が止まっている模様ですが、ガソリンの臭いがし、車両の中にガソリンを撒かれたうんぬんの内容です。現場げんじょう転進を願いたい”
午前8時25分──
“警視庁から愛宕、最寄りのPB員を至急派遣願いたい。日比谷線の神谷町駅、同所で車内でシンナーの臭い等がして苦しいうんぬんの言動*あり”

*警察無線でこの古めかしい言い回しは定番で頻繁に出てくる
ちなみに「等」は「など」じゃなく「とう」と読む
“日比谷線の事案と思料される。専務員*等の派遣、G事案**等に関係ないか確認を”

*専務員 : 警察は刑事やるにもパトカーに乗るにも鑑識やるにもいちいち資格が必要で、それぞれ資格試験に合格するとその部門の職務ができる専務警察官になる
**G事案 : 「ゴジラ事案」ではもちろんなく、当時のテロの呼び名「ゲリラ事件」を指す
午前8時27分──
“現在日比谷線において一連の事案が発生している。あるいはG事案等に発展するやもしれず、現時点から日比谷線の事案につき最優先の裁量とし他の通話は規制する”
午前8時29分──
“築地17*、本願寺前、歩道上。異様な臭いを吸ったと思われる者、
現在救助態勢、大至急応援派遣願いたい”

*築地17 : 所属課・隊ごとにコールサインの2桁台が割り振られている。
10番台は交通課で、この「築地17」は白バイ警官の模様
午前8時30分──
“警視庁から各局、日比谷線一連の事案につき、築地3丁目15番1号中心の5キロ圏、警戒態勢を発令する。各駅を管轄のPS*にあっては至急専務派遣、事案の解明にあたれ”

*PS ポリスステーションすなわち警察署
、と、長めの引用になったけども、最初の110番通報からわずか10分足らずで急加速で事態が緊迫かつ雪崩のごとくカオス化していく様子がわかる。
途中の警察無線用語は説明するとキリがないので最低限だけ解説付き。
ふわっとでも空気感が伝わればいいんで。
「現場のひとつは霞ヶ関駅」と聞いて、
公安1課係長“本郷”@警部
「ええいっ、行った方が早いっ」

刑事、警備、生安の班長主任たちも同じく駆け出す事件は現場で起きてるんで。
110番を受ける通信指令本部には、パトカー、白バイ、機捜隊からも情報が次々と、
「本願寺の境内で40から50名が、いずれも倒れている状態です。脈のない者も」
「現場は5か所以上の駅」「複数の駅」「ガスという情報もあり」
「正体不明なるもガス吸引による負傷者多数」
「千代田線国会議事堂駅」「霞ヶ関」「小伝馬町──
「なんだ、どうなってるんだ!」
“日比谷線で発生した同時多発G事案につき、築地3丁目15番1号中心の5キロ圏配備*を発令する。実施署は丸の内、神田、万世橋、中央、久松、築地、月島、愛宕、麹町、三田、麻布、赤坂の各署とし、同一に体制はいずれも甲号**とする”

*5キロ圏配備 : 「キロ圏配備」の圏内にいる警官はサーチ&デストロイモードになる
**甲号 : 「全員参加だ本気出せ」
「ち、ちょ、長官閣下でありますか。ほ、ほ、本職は巡査部長でありますが、白鳥警視の緊急の代理の電話役でお電話させていただいておりまして──」

“姐さ──いえ白鳥警視が倒れてしまい、おそれながら代わりに長官に伝言を──”


“地下鉄が危ないと白鳥警視は申しております。走行中の地下鉄車内で化学兵器によるゲリラ事件の可能性があると。大至急都内の地下鉄に厳戒け
“救急車通りまーす!”

“脇に寄って下さい! 道を空けて下さい!”
「……残念だが、遅かったようだ」



「危ないっ」

「ガス出てるからーっ」

1995年3月20日に発生した地下鉄サリン事件の状況、警察、自衛隊、病院、東京消防庁の活動は、公開された情報にもとづく。
登場する公官庁、企業、機関、組織、部局、役職もすべて実在する。
白鳥百合子はじめこの色で示されるのは、架空の人物であり、実在する人物、事件、出来事と架空の彼らの交差する部分は、例によって創作全開ソースは妄想なんであるが、その内容には一応意図がある。
また警視庁と各署の交信は2015年1月14日に警視庁が公開した事件当日の73分30秒にわたる交信記録にもとづく。


警視庁17階 刑事部対策室オペレーションセンター
石川重明@刑事部長、到着。
「状況は?」
「現場は10か所以上。ボディカウント増え続けています」
「原因はなんだ!」
「不明です。まもなく機捜が現地に到着します」
さらに、
同17階 警備部総合指揮所にも警備部と交通部の幹部が集結、
同14階 公安部指揮所にも公安幹部が集合。
一方、お隣の警察庁でも、4階総合警備対策室に幹部一同が駆けつける。
ここでは全国の警察無線が聴けるのだ。
“こちら中央1、地下から出てきた被害者は呼吸困難。有毒ガスの模様”
機動鑑識課員が地下鉄構内に無謀果敢に突入、
「ホーム上に不審物を発見」
「もしもし、“本郷”だ、いまホームにい……もしもし」
「もしもし……くそ、切れた。やっぱ地下じゃつながんねえか」
地下鉄駅で携帯電話がつながるようになるのは、この1年後。
警官たちは原因がなにかピンとこず、手で仰いで匂いを嗅いだり、
あとで思えば信じられんデンジャラスな行動をしていた。


しかも、なんかどしどし利用客が構内に入ってってるんですけど、いいんかしらん。
このときなんと日比谷線のホームすら立入禁止にすらなってない。
さっきから「日比谷線は発車見合わせております」
とテンパって構内放送してるんだけども、
発車見合わせなんて東京の地下鉄じゃ珍しくないんで、どうせすぐ再開だろ、と見込んだ乗り換えの通勤客がかまわず地下3階のホームにどんどん降りてきて、
「駅員さーん」
「すみませーん運転いつくらいに再開します?」
「いや、まだいつか分からんのです」
「なにかあったんですかー」
危機感まるでなし。
「車内で薬品がまかれて倒れた人も。あれ? ぼくも目が見えなくなってきた」
「……え?」
とかやってる向こうで車内の“水たまり”を調べてた鑑識課員が急にふらふらして、
倒れた。
「おい、大丈夫か、しっかりしろ!」
本郷は架空だが倒れた鑑識課員は実在の人物で、鑑識課係長の杉山克之である。
命を取り留め、強制捜査にも参加、のち語り部として警察大学校などで若い幹部候補生に地下鉄サリン事件の恐怖を伝える伝道師的存在になる。
「おい、ホームに人入れるな!まだ危ないぞっ」


あれは?


やられたのか。あいつらのしわざか。
白鳥の読みどおりだ、先制攻撃してきやがった──

あ、くそ──
しまった──
『警察庁、警視庁で、30名以上の警察官、職員が“被害”を受け……
……公安部の欄には警部クラスの名前も……』
しらとり──
『多くの捜査員は、危険をかえりみず、まず現場に向かった。
警察官としての本能が悲劇を生んでいた』(麻生幾「極秘捜査」より)
まもなく駅員も次々と倒れていく。
「緊急放送緊急放送、駅構内からただちに避難して下さいッ」
当初、なにが原因か分からないまま、消防隊員、警察官、営団職員が地下鉄駅内に飛び込んで素息素手で救援活動>二次被害を受けた。
警視庁警備1課が機動隊10個大隊総動員を指令。強制捜査の準備は吹っ飛んだ。

急派された警備車から完全装備の機動隊が勇ましく駆けつ──




…これ、おれら何すんだよ。
ジェラルミン盾も警棒も放水も催涙ガスも通用しない、姿なき「敵」
事態はいくつもの路線と駅と車両で同時多発進行的に、
秒を追うごとに悪化していった。

日比谷線@東武動物公園行「B711T」
平日の東京の地下鉄朝7時8時台は、寿司詰め分子レベルまで癒着一体化しそうな状態なんだが、学校が春休みに入ったんで通学客が減った分、
ちょっとだけ押し寿司具合がゆるめになっていた。


豊田亨が恵比寿で電車を降り、発車まもなく、それは起きる。


イソプロピルメタンフルオロホスホネート
通称サリン。


外気にふれるとすぐ気化>目の粘膜、呼吸、皮膚をとおして人体に侵入>
>筋肉と神経のつなぎ目にとり憑いて>脳からの信号受信を麻痺させて>
たった2、3秒で凶烈な症状が出る。
>目がチカチカ、視界が暗くなる、視野狭窄>
>眼痛、頭痛、涙あふれる、咳、くしゃみ鼻水>
>呼吸困難、嘔吐、意識障害、興奮、錯乱>
>意識混濁、体温上昇、痙攣、昏睡──
いちばんヤバいのが、呼吸器系の神経がやられることで、
つまり呼吸をつかさどる筋肉が働かなくなる>
>>息ができなくなる。
3駅目の神谷町駅に来る頃、車内は大混乱。

そんな地獄絵図が展開されてるにもかかわらず、怪しい新聞紙包みを駅員が取り除くと>1両目だけ誰も乗らないものの、ふたたび運転を続ける。
恵比寿>広尾>神谷町>霞ヶ関
東京・月曜・ラッシュ時は、複雑緻密に組み合わさった運行ダイヤにのっとって粛々とサラリーマンを職場へと輸送するのがなにより優先事項で。
その聖なる営みをぶった切ろう、なんて考える人間は誰もいなかった。
霞ヶ関でようやく運行停止。人々は必死で地上へと這い出す。
千代田線@代々木上原行「A725K」
林郁夫はサリンの袋に穴を開け、新御茶ノ水駅で下車。
新御茶ノ水>大手町>二重橋前>日比谷>霞ヶ関

二重橋前を過ぎる頃から目がおかしい息苦しいの声
新御茶ノ水>大手町>二重橋前>日比谷>霞ヶ関
霞ヶ関駅で乗客たちがホームに逃れ、倒れ。

霞ヶ関駅の助役高橋一正と電車区助役菱沼恒夫の2人が、
濡れた新聞包みを布製白手袋@液体スルーで片付け、相次いで倒れた。
丸ノ内線@荻窪行「A777」
廣瀬健一が御茶ノ水で降りてまもなく、乗客たちに異変が。
にもかかわらず営団の運転指令所へ伝わったのは「刺激臭」と「不審物」だけで、大した問題ではない、と判断されたのか、
御茶ノ水>淡路町>大手町>東京>銀座>霞ヶ関>国会議事堂前>
停まりゃしねえし。
日比谷線@中目黒行「A720S」
秋葉原を出てすぐに、
「ゴムの焼けるような刺激臭」が車内に充満。
林泰男が8つも穴を開けたんで気化したサリンも多量で、

破壊力も極悪だった。
秋葉原>小伝馬町>人形町>茅場町>八丁堀>築地>東銀座>銀座>日比谷>霞ヶ関
車内はたちまち狂乱状態。
次の小伝馬町で濡れた新聞包みに気づいた乗客、
「こいつのせいか!」
ホームに蹴り出す。

例によって電車は停まることなく、
床にしっかり広がったサリンを気化させっぱなしで発車。
秋葉原>小伝馬町>人形町>茅場町>八丁堀>築地>東銀座>銀座>日比谷>霞ヶ関
何も知らない新しい客が乗ってきて次々とサリンを吸った。
八丁堀駅に停まる頃には車内はふたたびパニック再発。

「うおおおお」「窓開けてくれ!」「目が見えない、目がーっ」
「ドア開けろお」「電車とめろー」
にもかかわらず地獄列車はさらに予定どおり平常運転を続け、
最初に乗客が倒れてから5区間も進んで、各駅でサリンを撒き散らかした。
どう考えてもとっとと電車停めろよなんだが、精緻に編み上げられたサラリーマン輸送システムは1人2人の人間の意志だけでは止まらない。
まさか治安のいいニッポンのしかも東京都心で化学兵器なんて、
日本いや世界の誰も想像すらしてなかった。
5分後、誰かが緊急停止ボタンを押す。
“ただいま非常停止ボタンが押されました。
押した方、次の築地駅で申し出てください”
なんもわかってない車内放送。そういう問題じゃないだろ。

“築地、築地です。えー、ご乗車の皆様、病人のかたが1人倒れましたので──”
“あ、2人倒れました。え? あ、3人?”
“さ、3人倒れま──”

“あーっなんだこれはー!”

“わあああーっどうなってるんだどうなってるんだどうなってるんだー!”
「改札を開放します! 今すぐ避難してください!」
築地駅の駅長、なにも知らず駆けつけ、原因らしい濡れた新聞包みを片づ
倒れる。
サリンが狭いホームに置き去り状態になって、悪魔の瘴気を発散し続け、
ホームを逃げる乗客を襲った。
さらに新聞包み@サリンが蹴り出された小伝馬町のホームでは、
足止めを食った後続電車の乗客、ホーム反対車線の北千住行電車の乗客が、
サリンただよう窒息地獄の空間に放り出される。
さらにさらに後続電車は、八丁堀、茅場町、人形町で運転を打ち切る。
が、
ここでもホームに舞うサリンが避難しようとする乗客たちを待ち受けていた。
丸ノ内線@池袋行「B701」
一方、横山真人が1袋に穴1つ空けただけだったこの電車は、
サリンの影響が他にくらべて激しくなく。
四ツ谷>赤坂見附>国会議事堂前>霞ヶ関>銀座>東京>大手町>淡路町>御茶ノ水>本郷三丁目>後楽園>茗荷谷>新大塚>池袋
なんとなく運転続行。さらに終点の池袋でとうぜんのごとく折り返して、
本郷三丁目で駅員が床に広がるサリンをモップで掃除。
もちろんそのまま乗客満載で走り続ける。
午前8時35分──
日比谷線各駅に急行した所轄署員から次々と速報が飛び込んでくる。
“日比谷線の築地、駅構内付近、相当の異臭、レスキューの要請を願います”


“八丁堀の駅、女性2名、人工呼吸中。救急隊員の話によると危ない状況”
“築地駅、20から30名くらいが、口鼻等から出血、呼吸困難で立ち上がれない状態”
“小伝馬町駅、歩道に上がってきた30名から40名の者”
“なお1名については現在意識不明の状態”
さらに千代田線からも。
“国会議事堂駅構内においても、女性1名、男性2名の計3名がホーム上に倒れている模様。原因については現在調査中”
じつはこのときまでに、茅場町駅で聞き込み中の署員から、
「新聞紙に包んだ、濁った液体から悪臭がした」
と、最も早い「新聞紙に包んだ」「液体」「悪臭」って正解がもたらされたんだけども、所轄署専用無線電話「署活系」の署員同士のやりとりのまったく又聞き伝聞で、情報も断片的すぎて他の膨大な報告に紛れてしまった。

日比谷線、複数駅と電車で被害が爆発的に広がってもうどうしようもなくなり、
ついに運転打ち切り。
電車と駅構内にいる乗客を避難させる。
が、千代田線と丸ノ内線は被害が運転指令所にうまく伝わらず。
相変わらず汚染車両は走り続ける。

緊急車両を通すため、日比谷通り交通封鎖。平日の朝なのに首都中心の大通りをなんも車が走ってない奇怪な光景が。
“一連のG事案につき6キロ圏配備を発令する。あわせて日比谷線沿線要点配備を発令する。なお要点配備については、中目黒、北千住間の日比谷線を管轄する各署とする”
午前8時40分──
“警視庁から各局、本日8時25分頃、築地、愛宕、麹町管内等の地下鉄駅構内で、”
“爆発物を使用したゲリラ事件が発生した”
思いっきし間違えてるが、この時点では情報が錯綜しすぎてるんで。
ちなみにこの1995年当時、テロの呼び名は「ゲリラ事件」なんである。
だが、まもなく、
午前8時46分──
八丁堀駅で聞き込み中の中央署員から事態を一変させる報告が。
“中央21*から警視庁。マル目の言によりますと、現在ホーム上の男性、救急隊の治療を受けていますが、この者から聴取の結果、えー”

*中央21 : 20番台のコールサインは刑事課で、「中央21」は中央署刑事課

“えーあーその者、マル目によると、満員の中目黒行きの電車に乗車中、“前の前の駅”と言っておりますので、小伝馬町か茅場町で新聞紙に入った液体ひとつ、これが目の前に落ち、見ると、中から溶け出し、ものすごい異臭がした、
その者は急いで停車した小伝馬もしくは茅場町駅で物体を車外に蹴り出した、
このような言動ありどうぞ”
「その液体は当初どこにあったんですかどうぞ」
“(苛)先ほどから言ってる通り、何者かが新聞紙に入った液体を落としたと”
「警視庁了解。落とした者については、人着等、全然判明していないかどうぞ」
“その通りです”
ここでようやく警視庁は「故意にまかれた有毒ガスらしい何か」が原因、と悟る。
これが反映されるのがようやく、
午前8時53分──
「警視庁から各局。薬品から発生したガス、一時呼吸困難に陥る状況になる模様。
よって不注意に中に入ることなく防毒マスク、防毒マスク等使用。
とくに受傷事故防止に留意されたい」

「警視庁から丸の内、同不審物件については絶対に手で触ることなく、
臨場は防毒マスク等をつけた警戒員などよろしく願います」

警察庁警視庁と化学防護服の警官たち。地下鉄サリン事件の衝撃度を激しく物語る光景。先進国かつ治安のよさで知られる日本の、しかも首都東京の、しかも警察庁警視庁の目と鼻の先で、史上初の無差別化学テロはおきたのである。
垣見隆@刑事局長

「長官、これはオウムのしわざです」
「サリンか」
「おそらく」
「……警察の負けです」
「負けだと? なにごとだ!」

「君には対決する姿勢がないのか!」

「君は警察官じゃないのか!」
『この“長官激怒事件”は、密かに警察庁内に広がった。指揮官が弱音を吐くという事態に、スタッフが動揺しないはずはなかった。オウム捜査を総指揮すべき警察庁刑事局の不幸は、ここから始まった』(麻生幾「極秘捜査」より)
午前8時56分──
テレビ第一報は「おはよう!ナイスデイ」@フジテレビ
「ただいまニュースが入りました」
「シンナーのような刺激臭のものがまかれ──」
「神谷町駅に30人ほどが倒れて──」
これがあれほどの大惨事の始まりだなんて、このとき世間はかけらも予想してない。
これまで第1方面系指令台から第1方面管内(中央区、千代田区、港区など)向けの発信だったが、ついにその上位の総合指揮台が動く。警視庁管内全域への一斉送信。
“警視庁から各局、1方面管内において爆発物使用のゲリラ事件が発生した。本件につき8時57分、全体G配備を発令する。ただし実施署は23区内とする”
“全体G配備を発令する。実施署は23区内とする。動員体制は全署甲号とする。関連重要施設、警察施設等の一斉点検を行い、不審物件等の発見に努められたい”
第1方面の地下鉄でおきてる事案なんてまったく知りもなかった他方面の署員は、朝っぱらからいきなり全体G配備=全署管内対テロ緊急配備、人員体制甲号=全力動員の最優先指令が飛び込んできて、びっくりである。
午前9時──
築地署に特別捜査本部設置。
300人編成ってことになり、本庁および所轄から捜査員がかき集められた。
警視庁 本富士署

「うちからも応援を出す。君も築地署に急いで捜査本部に加われ」
小杉敏行巡査長@警備課公安係@オウム警官
「分かりました」
なんとオウム警官が捜査本部に加わる。
午前9時20分──
霞ヶ関駅に向かった丸の内署員から、不審物情報が。
“霞ヶ関の駅事務所、形状不明なるも不審物件が2個”
“先頭車両に新聞紙に包んであった段ボール様のものから液体が流れているのを発見し、霞ヶ関駅で開けたところ一気に液体が流れ出し、多くの負傷者が出たと”
“1個については現在、駅側の金庫内に封印をして置いてあります。よって完全装備の者、開けられる装備の者1名の派遣をお願いしたい、どうぞ”
「警視庁了解、これは、液体等漏れる、ガスが漏れる等、状況はいかがどうぞ」
“了解しました。ガスが漏れるような状況がありますので、完全密封の金庫内に現在は封印して置いておりますどうぞ”
なんと素息、素手で運ぶ
取り急ぎ本庁から霞ヶ関駅に駆けつけ、「新聞紙でくるまれたナイロン袋」が押収された。さらに小伝馬町駅、築地駅でも不審なナイロン袋が見つかる。
しかも液体が少し残って。
計7つの残留物は、科捜研にさっそく渡され、
ガスクロマトグラフィーにかけられる。
ガスクロマトグラフィーはガスをイオン化(中略)波長から物質の正体を割り出すガス分析器だ。ただし順に成分を分離していくんで時間がかかる。
まもなく「ジエチルアニリン」の波長を検出。
警視庁刑事部対策室
「ジエチルアニリン? そいつが犯人か」
「いえ、おそらくこれは溶媒です。残る成分はまだ時間かかります」
東京消防庁の化学機動中隊も、中野坂上駅で残留物を手に入れ、
その場で簡易検知を開始。簡易だけにこっちの方が早く結果が出る。
が、
消防庁の簡易検知装置にはとうぜんサリンのデータなんて入力されてないんで、
解析結果>「アセトニトリル」
これがマスコミに伝わると、正ジエチルアニリンでなくて誤アセトニトリルの方がなぜか「きわめて有毒」という尾びれ背びれまでついて広まる。
「アセトニトリル、通称シアン化メチルを検出」
マスコミは誤報しまくりで治療現場に混乱をもたらした。
東京消防庁、救急隊を総動員。刻一刻と増えていくあちこちの現場に投入。
神谷町駅


築地駅
八丁堀駅


国会議事堂前駅

霞ヶ関駅
さらに茅場町、八丁堀、小伝馬町、新高円寺、御茶ノ水、中野坂上──

とっさに心臓マッサージしてるねーちゃんの男気あふれる図がニュース映像にも残る。
だがこのあと相手の服についてたサリンで彼女まで心肺停止に(さいわい助かる)
サリンの化学兵器的恐怖なところで、
彼女だけでなく、素手素息でホットゾーンに入ったり被害者にふれた救急隊、警官、駅員、医師、看護婦、善意の一般人が容赦なく二次被曝に遭った。
救急車、重症者をどんどんピストン搬送。

さらに13駅付近に救護所を開き、現地での応急処置も始まる。
被害者であふれかえる築地駅に最も近い救急医療拠点は、
明石町の聖路加国際病院の救命救急センターだった。
とうぜん小伝馬町駅や築地駅あちこちの救急隊から続々と搬送が殺到する。
まずいことに23区の全救急車が一斉にあちこちの被害者を運び出したもんだから、消防庁コントロールセンターも大混乱>パンク。
携帯電話もまだ普及前で救急隊員も持ってない。なので病院に連絡もとれず、
とにかく救急隊はやみくもに近場の聖路加をめざした。
聖路加でもなにが起きたか分からず。
ふつう救命救急センターのキャパは、1病院につき同時受けいれ4、5人が限度で、しかも命にかかわる重篤患者だと1人、多くても2人で、医師も看護婦もかかりきり、もうあっぷあっぷになる。
聖路加ならそのへんなんとか重篤3人まで同時受け入れ可能だ、が、
今回はそれはるかに超える膨大な急患が次から次から押し寄せて。
救急科だけじゃどうしようもなくなって、他の診療科や病棟の医師や看護婦が応援にかり出され、待合フロアやロビーにも患者があふれ出し、しかもさらに増え。
何がどうなってるんだこりゃ。
救急医が築地駅へ偵察にひとっ走り──

「ってうわっこれは──」

「ダメです! 5人や10人じゃない! いまの救急では対応できません!」
聖路加国際病院院長@日野原重明、ただちに非常事態宣言、
「今日の外来、すべて中止」
「すべての患者を受け入れろ」
救急科だけでなく、外来も病棟も、さらに精神科も整形外科も産婦人科も──
とにかく医者も看護婦も技師も事務もボランティアも全院総動員、
無制限打ち止めなしで急患を受け入れ始めた。
この日、聖路加の獅子奮迅の活躍は、
危機管理の超絶ネ申対応として、今に至るまで長く長く語り継がれることになる。
巨大なツインタワーが目印の聖路加国際病院、
ちょっとキラキラネームぽいのは「聖ルカ」のむりやり当て字である。正式名称の読みも「せいろか」ではなくあくまで「せいルカ」ってとこもキラキラ的である。
1992年に新病院建物一式が完成>移転したばかり。
設計は、カリスマ院長日野原重明が自ら采配した。
この巨大建築群ができたとき、同業者たちは常識破りの構造に驚き、
「宮殿かよ」「ムリ・ムダ・ムチャ」と呆れてせせら笑った。


なにしろロビー、廊下、礼拝堂、なにもかもむやみやたらとド広い。
さらになぜか廊下や礼拝堂の壁にまで酸素配管がとりつけられていた。
病院は病床数をできるだけ多くしないと採算が取れないんで、経営目線からみても金を生まない“死にスペース”が多すぎる無謀なつくり。
廊下や教会にベッドを並べるおつもりですかなほほほ。
日野原先生とち狂いましたなほほほ。
でもじつはこれ、凡百の病院屋には思いもよらない、
固い信念のもと緻密に考え抜かれたネ申設計で。
日野原重明@生きかた上手、若き医師だった太平洋戦争末期、
東京大空襲で焼け出された都民が、ろくな治療も受けられないまま野外で苦しみ死んでいったのをどうしようもできなかった苦い記憶がある。
もう二度とそんな悲劇はくりかえしてはならん!
そういう使命感のもと誕生したのがこの新生聖路加なんである。
わずか3年後にその超級機能を発動させるとは、
さすがの日野原本人でさえ思いもよらず。
「急げ急げっ! 早く次の救急車に場所空けろっ」
ふつうの病院なら考えられない数の患者がどんどん運び込まれ。
救急車だけでなく、警察の警備バス、タクシー、通りすがりの一般車、さらに徒歩でやってくる被害者が次から次へと。
最初は院長本人が、つづいて桜井@副院長が救命救急センター入口に門番のごとく立ちはだかり、次々とやって来る患者のトリアージを一手に引き受け、
「中症、9階!」「軽症、2階ね!」「この人はチャペル」「すぐICU!」
重症度ごとに患者を猛速で振り分けていく。


「空きベッド確認ッ」「車イス、ストレッチャー集めろ!」「毛布ありったけ!」
壁の配管に人工呼吸器をつないで、廊下にロビーも点滴スタンドも立ち並ぶ。
広い廊下、待合室フロア、礼拝堂が、即席救命救急センターに早変わり。
これこそ異色な設計のねらいだった。
こじゃれて真新しかった院内は、みるみる壮絶な野戦病院化していく。

医師や看護婦、さらに今でいうコメディカルも、
パニくることなくこの修羅場にてきぱき対応。
なんとこの日、聖路加は、救急車搬送重篤者99名、急患640名を受け入れる。


この日、済生会中央病院も一般外来打ち切り>被害者数十人を受け入れる。
虎の門病院も重症者など多数ひき受ける。
被害者の搬送先は都内の多くの病院にわたった。
一方、聖路加院内の救命救急センター
「これは一体なんなんだ?」
すでに1人は到着してすぐ死亡を確認。
さらに4人がCPA@心肺停止で運ばれてきて蘇生に取り組んでるんだが……、
原因が分からん。
外傷はない、なのに心肺停止。
「視界が暗い、頭痛、頭が重い、目が痛い、息がしにくい、胸が苦しい、鼻水」
目が見えない、筋肉麻痺、呼吸不全で死にかけている。
しかも縮瞳とくれば──
「くそ、有機リン酸系の中毒しかあり得んぞ」
「しかし、あれは農薬ですよ? この都心ど真ん中の地下鉄でなんで農薬?」
症状だってあまりにも激烈すぎる。
一体なにが起きたっていうんだ?
「先生、消防の人がアセトニトリルだって言ってるそうですが」
「はぁ? アセトニトリルう?」
実験とかの溶媒に使われるシアン系の有機溶剤で、たしかに劇物指定、だが、
これ症状がシアン系とはぜんぜんちがうし、
「あれはこんなムチャクチャな猛毒じゃないぞ」
なんなんだこりゃ!
「白鳥さーん、ごめんなさいね。いま急患が大勢来てるから、
申し訳ないけどべつの病室に移動を──」
「白鳥さん!?」

「こっち点滴! 急いで!」「吸引早く!」

「呼吸が──」「しっかり! 助かるからね!」

「おい、酸素マスク追加!」「毛布もっと持ってこいっ」
≫ 【後篇】へとつづく


“電車が爆発、乗客が鼻血”
午前8時15分──
NHK速報「東京地下鉄で異臭発生」
午前8時16分──
東京消防庁>聖路加国際病院の救命救急センター、最初の電話連絡。
“茅場町駅で爆発と火災、ケガ人の受け入れ準備願います”
まちがってるし。
午前8時17分──

「事件ですか、事故ですか?」
最初の110番通報<八丁堀駅
午前8時21分──

警視庁通信指令本部から>中央署へ、最初の指令
“警視庁から各局、中央管内調査方、カー*が付近にいませんので、最寄りのPB**派遣願います。場所が八丁堀2丁目22番、日比谷線の八丁堀の駅、病人2名、気持ち悪くなった者2名いるそうです、あるいは事件事故等やもしれませんが、詳細判然としません”

*カー : パトカー、覆面パトカーなど警察車両 今回通信のなかでは「移動」「PC」とも言っている
**PB : ポリスボックスすなわち交番や派出所
午前8時23分──

“警視庁から中央、調査方110番入電。PB員等の派遣お願いします。場所が日本橋茅場町1丁目4番6号、八丁堀1の4の6、日比谷線の茅場町駅。同所までお願いします。内容は先に八丁堀の駅で指令した件と同件やもしれませんが、異臭がして4名ぐらい病人が出た模様です”
午前8時24分──
“日比谷線の築地駅、現在電車が止まっている模様ですが、ガソリンの臭いがし、車両の中にガソリンを撒かれたうんぬんの内容です。現場げんじょう転進を願いたい”
午前8時25分──

“警視庁から愛宕、最寄りのPB員を至急派遣願いたい。日比谷線の神谷町駅、同所で車内でシンナーの臭い等がして苦しいうんぬんの言動*あり”

*警察無線でこの古めかしい言い回しは定番で頻繁に出てくる
ちなみに「等」は「など」じゃなく「とう」と読む
“日比谷線の事案と思料される。専務員*等の派遣、G事案**等に関係ないか確認を”

*専務員 : 警察は刑事やるにもパトカーに乗るにも鑑識やるにもいちいち資格が必要で、それぞれ資格試験に合格するとその部門の職務ができる専務警察官になる
**G事案 : 「ゴジラ事案」ではもちろんなく、当時のテロの呼び名「ゲリラ事件」を指す
午前8時27分──
“現在日比谷線において一連の事案が発生している。あるいはG事案等に発展するやもしれず、現時点から日比谷線の事案につき最優先の裁量とし他の通話は規制する”
午前8時29分──

“築地17*、本願寺前、歩道上。異様な臭いを吸ったと思われる者、
現在救助態勢、大至急応援派遣願いたい”

*築地17 : 所属課・隊ごとにコールサインの2桁台が割り振られている。
10番台は交通課で、この「築地17」は白バイ警官の模様
午前8時30分──

“警視庁から各局、日比谷線一連の事案につき、築地3丁目15番1号中心の5キロ圏、警戒態勢を発令する。各駅を管轄のPS*にあっては至急専務派遣、事案の解明にあたれ”

*PS ポリスステーションすなわち警察署
、と、長めの引用になったけども、最初の110番通報からわずか10分足らずで急加速で事態が緊迫かつ雪崩のごとくカオス化していく様子がわかる。
途中の警察無線用語は説明するとキリがないので最低限だけ解説付き。
ふわっとでも空気感が伝わればいいんで。
「現場のひとつは霞ヶ関駅」と聞いて、

「ええいっ、行った方が早いっ」

刑事、警備、生安の班長主任たちも同じく駆け出す事件は現場で起きてるんで。

110番を受ける通信指令本部には、パトカー、白バイ、機捜隊からも情報が次々と、
「本願寺の境内で40から50名が、いずれも倒れている状態です。脈のない者も」
「現場は5か所以上の駅」「複数の駅」「ガスという情報もあり」
「正体不明なるもガス吸引による負傷者多数」
「千代田線国会議事堂駅」「霞ヶ関」「小伝馬町──
「なんだ、どうなってるんだ!」

“日比谷線で発生した同時多発G事案につき、築地3丁目15番1号中心の5キロ圏配備*を発令する。実施署は丸の内、神田、万世橋、中央、久松、築地、月島、愛宕、麹町、三田、麻布、赤坂の各署とし、同一に体制はいずれも甲号**とする”

*5キロ圏配備 : 「キロ圏配備」の圏内にいる警官はサーチ&デストロイモードになる
**甲号 : 「全員参加だ本気出せ」

「ち、ちょ、長官閣下でありますか。ほ、ほ、本職は巡査部長でありますが、白鳥警視の緊急の代理の電話役でお電話させていただいておりまして──」

“姐さ──いえ白鳥警視が倒れてしまい、おそれながら代わりに長官に伝言を──”


“地下鉄が危ないと白鳥警視は申しております。走行中の地下鉄車内で化学兵器によるゲリラ事件の可能性があると。大至急都内の地下鉄に厳戒け
“救急車通りまーす!”

“脇に寄って下さい! 道を空けて下さい!”

「……残念だが、遅かったようだ」






「危ないっ」

「ガス出てるからーっ」

1995年3月20日に発生した地下鉄サリン事件の状況、警察、自衛隊、病院、東京消防庁の活動は、公開された情報にもとづく。
登場する公官庁、企業、機関、組織、部局、役職もすべて実在する。
白鳥百合子はじめこの色で示されるのは、架空の人物であり、実在する人物、事件、出来事と架空の彼らの交差する部分は、例によって創作全開ソースは妄想なんであるが、その内容には一応意図がある。
また警視庁と各署の交信は2015年1月14日に警視庁が公開した事件当日の73分30秒にわたる交信記録にもとづく。


警視庁17階 刑事部対策室オペレーションセンター

石川重明@刑事部長、到着。
「状況は?」
「現場は10か所以上。ボディカウント増え続けています」
「原因はなんだ!」
「不明です。まもなく機捜が現地に到着します」
さらに、
同17階 警備部総合指揮所にも警備部と交通部の幹部が集結、
同14階 公安部指揮所にも公安幹部が集合。

一方、お隣の警察庁でも、4階総合警備対策室に幹部一同が駆けつける。
ここでは全国の警察無線が聴けるのだ。

“こちら中央1、地下から出てきた被害者は呼吸困難。有毒ガスの模様”

機動鑑識課員が地下鉄構内に

「ホーム上に不審物を発見」

「もしもし、“本郷”だ、いまホームにい……もしもし」

「もしもし……くそ、切れた。やっぱ地下じゃつながんねえか」
地下鉄駅で携帯電話がつながるようになるのは、この1年後。
警官たちは原因がなにかピンとこず、手で仰いで匂いを嗅いだり、
あとで思えば信じられんデンジャラスな行動をしていた。


しかも、なんかどしどし利用客が構内に入ってってるんですけど、いいんかしらん。
このときなんと日比谷線のホームすら立入禁止にすらなってない。
さっきから「日比谷線は発車見合わせております」
とテンパって構内放送してるんだけども、
発車見合わせなんて東京の地下鉄じゃ珍しくないんで、どうせすぐ再開だろ、と見込んだ乗り換えの通勤客がかまわず地下3階のホームにどんどん降りてきて、
「駅員さーん」

「すみませーん運転いつくらいに再開します?」
「いや、まだいつか分からんのです」
「なにかあったんですかー」
危機感まるでなし。

「車内で薬品がまかれて倒れた人も。あれ? ぼくも目が見えなくなってきた」
「……え?」
とかやってる向こうで車内の“水たまり”を調べてた鑑識課員が急にふらふらして、

倒れた。

「おい、大丈夫か、しっかりしろ!」
本郷は架空だが倒れた鑑識課員は実在の人物で、鑑識課係長の杉山克之である。
命を取り留め、強制捜査にも参加、のち語り部として警察大学校などで若い幹部候補生に地下鉄サリン事件の恐怖を伝える伝道師的存在になる。

「おい、ホームに人入れるな!まだ危ないぞっ」


あれは?


やられたのか。あいつらのしわざか。
白鳥の読みどおりだ、先制攻撃してきやがった──

あ、くそ──

しまった──
『警察庁、警視庁で、30名以上の警察官、職員が“被害”を受け……
……公安部の欄には警部クラスの名前も……』

しらとり──
『多くの捜査員は、危険をかえりみず、まず現場に向かった。
警察官としての本能が悲劇を生んでいた』(麻生幾「極秘捜査」より)

まもなく駅員も次々と倒れていく。
「緊急放送緊急放送、駅構内からただちに避難して下さいッ」
当初、なにが原因か分からないまま、消防隊員、警察官、営団職員が地下鉄駅内に飛び込んで素息素手で救援活動>二次被害を受けた。
警視庁警備1課が機動隊10個大隊総動員を指令。強制捜査の準備は吹っ飛んだ。


急派された警備車から完全装備の機動隊が勇ましく駆けつ──






…これ、おれら何すんだよ。
ジェラルミン盾も警棒も放水も催涙ガスも通用しない、姿なき「敵」

事態はいくつもの路線と駅と車両で同時多発進行的に、
秒を追うごとに悪化していった。


日比谷線@東武動物公園行「B711T」
平日の東京の地下鉄朝7時8時台は、寿司詰め分子レベルまで癒着一体化しそうな状態なんだが、学校が春休みに入ったんで通学客が減った分、
ちょっとだけ押し寿司具合がゆるめになっていた。


豊田亨が恵比寿で電車を降り、発車まもなく、それは起きる。


イソプロピルメタンフルオロホスホネート
通称サリン。


外気にふれるとすぐ気化>目の粘膜、呼吸、皮膚をとおして人体に侵入>
>筋肉と神経のつなぎ目にとり憑いて>脳からの信号受信を麻痺させて>

たった2、3秒で凶烈な症状が出る。
>目がチカチカ、視界が暗くなる、視野狭窄>

>眼痛、頭痛、涙あふれる、咳、くしゃみ鼻水>

>呼吸困難、嘔吐、意識障害、興奮、錯乱>

>意識混濁、体温上昇、痙攣、昏睡──
いちばんヤバいのが、呼吸器系の神経がやられることで、
つまり呼吸をつかさどる筋肉が働かなくなる>

>>息ができなくなる。
3駅目の神谷町駅に来る頃、車内は大混乱。

そんな地獄絵図が展開されてるにもかかわらず、怪しい新聞紙包みを駅員が取り除くと>1両目だけ誰も乗らないものの、ふたたび運転を続ける。
恵比寿>広尾>神谷町>霞ヶ関
東京・月曜・ラッシュ時は、複雑緻密に組み合わさった運行ダイヤにのっとって粛々とサラリーマンを職場へと輸送するのがなにより優先事項で。
その聖なる営みをぶった切ろう、なんて考える人間は誰もいなかった。

霞ヶ関でようやく運行停止。人々は必死で地上へと這い出す。

千代田線@代々木上原行「A725K」
林郁夫はサリンの袋に穴を開け、新御茶ノ水駅で下車。
新御茶ノ水>大手町>二重橋前>日比谷>霞ヶ関

二重橋前を過ぎる頃から目がおかしい息苦しいの声
新御茶ノ水>大手町>二重橋前>日比谷>霞ヶ関

霞ヶ関駅で乗客たちがホームに逃れ、倒れ。


霞ヶ関駅の助役高橋一正と電車区助役菱沼恒夫の2人が、
濡れた新聞包みを布製白手袋@液体スルーで片付け、相次いで倒れた。

丸ノ内線@荻窪行「A777」

廣瀬健一が御茶ノ水で降りてまもなく、乗客たちに異変が。
にもかかわらず営団の運転指令所へ伝わったのは「刺激臭」と「不審物」だけで、大した問題ではない、と判断されたのか、
御茶ノ水>淡路町>大手町>東京>銀座>霞ヶ関>国会議事堂前>
停まりゃしねえし。

日比谷線@中目黒行「A720S」
秋葉原を出てすぐに、
「ゴムの焼けるような刺激臭」が車内に充満。
林泰男が8つも穴を開けたんで気化したサリンも多量で、

破壊力も極悪だった。
秋葉原>小伝馬町>人形町>茅場町>八丁堀>築地>東銀座>銀座>日比谷>霞ヶ関
車内はたちまち狂乱状態。
次の小伝馬町で濡れた新聞包みに気づいた乗客、

「こいつのせいか!」
ホームに蹴り出す。

例によって電車は停まることなく、
床にしっかり広がったサリンを気化させっぱなしで発車。

秋葉原>小伝馬町>人形町>茅場町>八丁堀>築地>東銀座>銀座>日比谷>霞ヶ関
何も知らない新しい客が乗ってきて次々とサリンを吸った。
八丁堀駅に停まる頃には車内はふたたびパニック再発。


「うおおおお」「窓開けてくれ!」「目が見えない、目がーっ」
「ドア開けろお」「電車とめろー」
にもかかわらず地獄列車はさらに予定どおり平常運転を続け、

最初に乗客が倒れてから5区間も進んで、各駅でサリンを撒き散らかした。
どう考えてもとっとと電車停めろよなんだが、精緻に編み上げられたサラリーマン輸送システムは1人2人の人間の意志だけでは止まらない。
まさか治安のいいニッポンのしかも東京都心で化学兵器なんて、
日本いや世界の誰も想像すらしてなかった。

5分後、誰かが緊急停止ボタンを押す。
“ただいま非常停止ボタンが押されました。
押した方、次の築地駅で申し出てください”
なんもわかってない車内放送。そういう問題じゃないだろ。

“築地、築地です。えー、ご乗車の皆様、病人のかたが1人倒れましたので──”

“あ、2人倒れました。え? あ、3人?”

“さ、3人倒れま──”


“あーっなんだこれはー!”


“わあああーっどうなってるんだどうなってるんだどうなってるんだー!”

「改札を開放します! 今すぐ避難してください!」

築地駅の駅長、なにも知らず駆けつけ、原因らしい濡れた新聞包みを片づ
倒れる。
サリンが狭いホームに置き去り状態になって、悪魔の瘴気を発散し続け、
ホームを逃げる乗客を襲った。

さらに新聞包み@サリンが蹴り出された小伝馬町のホームでは、
足止めを食った後続電車の乗客、ホーム反対車線の北千住行電車の乗客が、
サリンただよう窒息地獄の空間に放り出される。

さらにさらに後続電車は、八丁堀、茅場町、人形町で運転を打ち切る。
が、
ここでもホームに舞うサリンが避難しようとする乗客たちを待ち受けていた。

丸ノ内線@池袋行「B701」
一方、横山真人が1袋に穴1つ空けただけだったこの電車は、
サリンの影響が他にくらべて激しくなく。
四ツ谷>赤坂見附>国会議事堂前>霞ヶ関>銀座>東京>大手町>淡路町>御茶ノ水>本郷三丁目>後楽園>茗荷谷>新大塚>池袋
なんとなく運転続行。さらに終点の池袋でとうぜんのごとく折り返して、
本郷三丁目で駅員が床に広がるサリンをモップで掃除。
もちろんそのまま乗客満載で走り続ける。
午前8時35分──
日比谷線各駅に急行した所轄署員から次々と速報が飛び込んでくる。

“日比谷線の築地、駅構内付近、相当の異臭、レスキューの要請を願います”


“八丁堀の駅、女性2名、人工呼吸中。救急隊員の話によると危ない状況”
“築地駅、20から30名くらいが、口鼻等から出血、呼吸困難で立ち上がれない状態”

“小伝馬町駅、歩道に上がってきた30名から40名の者”
“なお1名については現在意識不明の状態”
さらに千代田線からも。

“国会議事堂駅構内においても、女性1名、男性2名の計3名がホーム上に倒れている模様。原因については現在調査中”
じつはこのときまでに、茅場町駅で聞き込み中の署員から、
「新聞紙に包んだ、濁った液体から悪臭がした」
と、最も早い「新聞紙に包んだ」「液体」「悪臭」って正解がもたらされたんだけども、所轄署専用無線電話「署活系」の署員同士のやりとりのまったく又聞き伝聞で、情報も断片的すぎて他の膨大な報告に紛れてしまった。

日比谷線、複数駅と電車で被害が爆発的に広がってもうどうしようもなくなり、

ついに運転打ち切り。
電車と駅構内にいる乗客を避難させる。
が、千代田線と丸ノ内線は被害が運転指令所にうまく伝わらず。
相変わらず汚染車両は走り続ける。


緊急車両を通すため、日比谷通り交通封鎖。平日の朝なのに首都中心の大通りをなんも車が走ってない奇怪な光景が。

“一連のG事案につき6キロ圏配備を発令する。あわせて日比谷線沿線要点配備を発令する。なお要点配備については、中目黒、北千住間の日比谷線を管轄する各署とする”
午前8時40分──

“警視庁から各局、本日8時25分頃、築地、愛宕、麹町管内等の地下鉄駅構内で、”

“爆発物を使用したゲリラ事件が発生した”
思いっきし間違えてるが、この時点では情報が錯綜しすぎてるんで。
ちなみにこの1995年当時、テロの呼び名は「ゲリラ事件」なんである。
だが、まもなく、
午前8時46分──
八丁堀駅で聞き込み中の中央署員から事態を一変させる報告が。

“中央21*から警視庁。マル目の言によりますと、現在ホーム上の男性、救急隊の治療を受けていますが、この者から聴取の結果、えー”

*中央21 : 20番台のコールサインは刑事課で、「中央21」は中央署刑事課


“えーあーその者、マル目によると、満員の中目黒行きの電車に乗車中、“前の前の駅”と言っておりますので、小伝馬町か茅場町で新聞紙に入った液体ひとつ、これが目の前に落ち、見ると、中から溶け出し、ものすごい異臭がした、
その者は急いで停車した小伝馬もしくは茅場町駅で物体を車外に蹴り出した、
このような言動ありどうぞ”

「その液体は当初どこにあったんですかどうぞ」
“(苛)先ほどから言ってる通り、何者かが新聞紙に入った液体を落としたと”
「警視庁了解。落とした者については、人着等、全然判明していないかどうぞ」
“その通りです”
ここでようやく警視庁は「故意にまかれた有毒ガスらしい何か」が原因、と悟る。
これが反映されるのがようやく、
午前8時53分──

「警視庁から各局。薬品から発生したガス、一時呼吸困難に陥る状況になる模様。
よって不注意に中に入ることなく防毒マスク、防毒マスク等使用。
とくに受傷事故防止に留意されたい」

「警視庁から丸の内、同不審物件については絶対に手で触ることなく、
臨場は防毒マスク等をつけた警戒員などよろしく願います」

警察庁警視庁と化学防護服の警官たち。地下鉄サリン事件の衝撃度を激しく物語る光景。先進国かつ治安のよさで知られる日本の、しかも首都東京の、しかも警察庁警視庁の目と鼻の先で、史上初の無差別化学テロはおきたのである。
垣見隆@刑事局長


「長官、これはオウムのしわざです」

「サリンか」
「おそらく」

「……警察の負けです」
「負けだと? なにごとだ!」


「君には対決する姿勢がないのか!」


「君は警察官じゃないのか!」
『この“長官激怒事件”は、密かに警察庁内に広がった。指揮官が弱音を吐くという事態に、スタッフが動揺しないはずはなかった。オウム捜査を総指揮すべき警察庁刑事局の不幸は、ここから始まった』(麻生幾「極秘捜査」より)

午前8時56分──
テレビ第一報は「おはよう!ナイスデイ」@フジテレビ
「ただいまニュースが入りました」

「シンナーのような刺激臭のものがまかれ──」
「神谷町駅に30人ほどが倒れて──」
これがあれほどの大惨事の始まりだなんて、このとき世間はかけらも予想してない。

これまで第1方面系指令台から第1方面管内(中央区、千代田区、港区など)向けの発信だったが、ついにその上位の総合指揮台が動く。警視庁管内全域への一斉送信。
“警視庁から各局、1方面管内において爆発物使用のゲリラ事件が発生した。本件につき8時57分、全体G配備を発令する。ただし実施署は23区内とする”

“全体G配備を発令する。実施署は23区内とする。動員体制は全署甲号とする。関連重要施設、警察施設等の一斉点検を行い、不審物件等の発見に努められたい”
第1方面の地下鉄でおきてる事案なんてまったく知りもなかった他方面の署員は、朝っぱらからいきなり全体G配備=全署管内対テロ緊急配備、人員体制甲号=全力動員の最優先指令が飛び込んできて、びっくりである。
午前9時──

築地署に特別捜査本部設置。
300人編成ってことになり、本庁および所轄から捜査員がかき集められた。
警視庁 本富士署


「うちからも応援を出す。君も築地署に急いで捜査本部に加われ」

「分かりました」
なんとオウム警官が捜査本部に加わる。
午前9時20分──
霞ヶ関駅に向かった丸の内署員から、不審物情報が。
“霞ヶ関の駅事務所、形状不明なるも不審物件が2個”

“先頭車両に新聞紙に包んであった段ボール様のものから液体が流れているのを発見し、霞ヶ関駅で開けたところ一気に液体が流れ出し、多くの負傷者が出たと”
“1個については現在、駅側の金庫内に封印をして置いてあります。よって完全装備の者、開けられる装備の者1名の派遣をお願いしたい、どうぞ”
「警視庁了解、これは、液体等漏れる、ガスが漏れる等、状況はいかがどうぞ」
“了解しました。ガスが漏れるような状況がありますので、完全密封の金庫内に現在は封印して置いておりますどうぞ”

取り急ぎ本庁から霞ヶ関駅に駆けつけ、「新聞紙でくるまれたナイロン袋」が押収された。さらに小伝馬町駅、築地駅でも不審なナイロン袋が見つかる。
しかも液体が少し残って。
計7つの残留物は、科捜研にさっそく渡され、
ガスクロマトグラフィーにかけられる。

ガスクロマトグラフィーはガスをイオン化(中略)波長から物質の正体を割り出すガス分析器だ。ただし順に成分を分離していくんで時間がかかる。
まもなく「ジエチルアニリン」の波長を検出。

警視庁刑事部対策室
「ジエチルアニリン? そいつが犯人か」
「いえ、おそらくこれは溶媒です。残る成分はまだ時間かかります」

東京消防庁の化学機動中隊も、中野坂上駅で残留物を手に入れ、
その場で簡易検知を開始。簡易だけにこっちの方が早く結果が出る。
が、
消防庁の簡易検知装置にはとうぜんサリンのデータなんて入力されてないんで、
解析結果>「アセトニトリル」
これがマスコミに伝わると、正ジエチルアニリンでなくて誤アセトニトリルの方がなぜか「きわめて有毒」という尾びれ背びれまでついて広まる。
「アセトニトリル、通称シアン化メチルを検出」
マスコミは誤報しまくりで治療現場に混乱をもたらした。

東京消防庁、救急隊を総動員。刻一刻と増えていくあちこちの現場に投入。


神谷町駅



築地駅


八丁堀駅



国会議事堂前駅


霞ヶ関駅
さらに茅場町、八丁堀、小伝馬町、新高円寺、御茶ノ水、中野坂上──


とっさに心臓マッサージしてるねーちゃんの男気あふれる図がニュース映像にも残る。
だがこのあと相手の服についてたサリンで彼女まで心肺停止に(さいわい助かる)
サリンの化学兵器的恐怖なところで、
彼女だけでなく、素手素息でホットゾーンに入ったり被害者にふれた救急隊、警官、駅員、医師、看護婦、善意の一般人が容赦なく二次被曝に遭った。


救急車、重症者をどんどんピストン搬送。



さらに13駅付近に救護所を開き、現地での応急処置も始まる。

被害者であふれかえる築地駅に最も近い救急医療拠点は、
明石町の聖路加国際病院の救命救急センターだった。
とうぜん小伝馬町駅や築地駅あちこちの救急隊から続々と搬送が殺到する。
まずいことに23区の全救急車が一斉にあちこちの被害者を運び出したもんだから、消防庁コントロールセンターも大混乱>パンク。
携帯電話もまだ普及前で救急隊員も持ってない。なので病院に連絡もとれず、
とにかく救急隊はやみくもに近場の聖路加をめざした。
聖路加でもなにが起きたか分からず。

ふつう救命救急センターのキャパは、1病院につき同時受けいれ4、5人が限度で、しかも命にかかわる重篤患者だと1人、多くても2人で、医師も看護婦もかかりきり、もうあっぷあっぷになる。
聖路加ならそのへんなんとか重篤3人まで同時受け入れ可能だ、が、

今回はそれはるかに超える膨大な急患が次から次から押し寄せて。
救急科だけじゃどうしようもなくなって、他の診療科や病棟の医師や看護婦が応援にかり出され、待合フロアやロビーにも患者があふれ出し、しかもさらに増え。
何がどうなってるんだこりゃ。

救急医が築地駅へ偵察にひとっ走り──

「ってうわっこれは──」

「ダメです! 5人や10人じゃない! いまの救急では対応できません!」

聖路加国際病院院長@日野原重明、ただちに非常事態宣言、
「今日の外来、すべて中止」
「すべての患者を受け入れろ」

救急科だけでなく、外来も病棟も、さらに精神科も整形外科も産婦人科も──
とにかく医者も看護婦も技師も事務もボランティアも全院総動員、
無制限打ち止めなしで急患を受け入れ始めた。
この日、聖路加の獅子奮迅の活躍は、
危機管理の超絶ネ申対応として、今に至るまで長く長く語り継がれることになる。

巨大なツインタワーが目印の聖路加国際病院、
ちょっとキラキラネームぽいのは「聖ルカ」のむりやり当て字である。正式名称の読みも「せいろか」ではなくあくまで「せいルカ」ってとこもキラキラ的である。
1992年に新病院建物一式が完成>移転したばかり。

設計は、カリスマ院長日野原重明が自ら采配した。
この巨大建築群ができたとき、同業者たちは常識破りの構造に驚き、
「宮殿かよ」「ムリ・ムダ・ムチャ」と呆れてせせら笑った。



なにしろロビー、廊下、礼拝堂、なにもかもむやみやたらとド広い。
さらになぜか廊下や礼拝堂の壁にまで酸素配管がとりつけられていた。
病院は病床数をできるだけ多くしないと採算が取れないんで、経営目線からみても金を生まない“死にスペース”が多すぎる無謀なつくり。
廊下や教会にベッドを並べるおつもりですかなほほほ。
日野原先生とち狂いましたなほほほ。
でもじつはこれ、凡百の病院屋には思いもよらない、
固い信念のもと緻密に考え抜かれたネ申設計で。

日野原重明@生きかた上手、若き医師だった太平洋戦争末期、
東京大空襲で焼け出された都民が、ろくな治療も受けられないまま野外で苦しみ死んでいったのをどうしようもできなかった苦い記憶がある。
もう二度とそんな悲劇はくりかえしてはならん!
そういう使命感のもと誕生したのがこの新生聖路加なんである。
わずか3年後にその超級機能を発動させるとは、
さすがの日野原本人でさえ思いもよらず。

「急げ急げっ! 早く次の救急車に場所空けろっ」

ふつうの病院なら考えられない数の患者がどんどん運び込まれ。
救急車だけでなく、警察の警備バス、タクシー、通りすがりの一般車、さらに徒歩でやってくる被害者が次から次へと。

最初は院長本人が、つづいて桜井@副院長が救命救急センター入口に門番のごとく立ちはだかり、次々とやって来る患者のトリアージを一手に引き受け、
「中症、9階!」「軽症、2階ね!」「この人はチャペル」「すぐICU!」
重症度ごとに患者を猛速で振り分けていく。


「空きベッド確認ッ」「車イス、ストレッチャー集めろ!」「毛布ありったけ!」

壁の配管に人工呼吸器をつないで、廊下にロビーも点滴スタンドも立ち並ぶ。


広い廊下、待合室フロア、礼拝堂が、即席救命救急センターに早変わり。
これこそ異色な設計のねらいだった。

こじゃれて真新しかった院内は、みるみる壮絶な野戦病院化していく。


医師や看護婦、さらに今でいうコメディカルも、
パニくることなくこの修羅場にてきぱき対応。
なんとこの日、聖路加は、救急車搬送重篤者99名、急患640名を受け入れる。



この日、済生会中央病院も一般外来打ち切り>被害者数十人を受け入れる。
虎の門病院も重症者など多数ひき受ける。
被害者の搬送先は都内の多くの病院にわたった。
一方、聖路加院内の救命救急センター

「これは一体なんなんだ?」
すでに1人は到着してすぐ死亡を確認。
さらに4人がCPA@心肺停止で運ばれてきて蘇生に取り組んでるんだが……、
原因が分からん。
外傷はない、なのに心肺停止。
「視界が暗い、頭痛、頭が重い、目が痛い、息がしにくい、胸が苦しい、鼻水」
目が見えない、筋肉麻痺、呼吸不全で死にかけている。

しかも縮瞳とくれば──
「くそ、有機リン酸系の中毒しかあり得んぞ」

「しかし、あれは農薬ですよ? この都心ど真ん中の地下鉄でなんで農薬?」
症状だってあまりにも激烈すぎる。
一体なにが起きたっていうんだ?

「先生、消防の人がアセトニトリルだって言ってるそうですが」
「はぁ? アセトニトリルう?」
実験とかの溶媒に使われるシアン系の有機溶剤で、たしかに劇物指定、だが、
これ症状がシアン系とはぜんぜんちがうし、
「あれはこんなムチャクチャな猛毒じゃないぞ」
なんなんだこりゃ!

「白鳥さーん、ごめんなさいね。いま急患が大勢来てるから、
申し訳ないけどべつの病室に移動を──」

「白鳥さん!?」

「こっち点滴! 急いで!」「吸引早く!」

「呼吸が──」「しっかり! 助かるからね!」


「おい、酸素マスク追加!」「毛布もっと持ってこいっ」
≫ 【後篇】へとつづく







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